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2018年2月19日 (月)

感想・古賀暹『北一輝 革命思想として読む』(御茶の水書房2014年6月)

   古賀暹氏が『情況』に掲載されていた北一輝についての連作が大作の著書として刊行されたことを知った。米田隆介氏の挨拶で出版記念会も開かれていたようである。著者の長年の思いが著書として刊行されることになったのは喜ばしいことであるが、気になるところもあるのを申し上げておきたい。                                                                蘆田東一  2015年6月 6日 (土)

  以前に2・26事件について気になっていたことを古賀氏の著書が出版されたことを機に書いてみたが、非常に不十分だったので少し訂正してみた。(2018/02/19)

一 北一輝という幻影
 北一輝は、2・26事件に関連した思想家として刑死した人として有名である。古賀暹の著書の巻末にある引用文献の『北一輝著作集』第一~三巻(みすず書房)に主要な著作はある。
 1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校が歩兵第一連隊・第三連隊・近衛第三連隊らの兵1500名を動かし、陸軍省や首相官邸を襲撃占拠し、蔵相高橋是清・内大臣斎藤実・渡辺錠太郎教育総監らを殺害(決起側は岡田啓介首相と秘書官を間違えて殺害)し、鈴木貫太郎侍従長に瀕死の重傷を負わせた。これは、近代日本の国家制度整備後の最大の内乱事件(2・26事件)である。
2・26事件は、北一輝の影響のもとに行われたとされていた。最近は資料がかなり明らかにされてきたが、事件は軍事法廷で処理されたために分からないことが多かった。そして、2・26事件で民間人ながら主犯か黒幕のようにして処刑された北一輝・西田税は、兵を指揮命令できる筈はないので、逆に、思想や意図が注目されることになった。
 北一輝に言及した著書は多いと思われる。表題に「北一輝」とあるもので、よく参照されるのが、田中惣五郎『北一輝-日本的ファシストの象徴』(未来社1959)、渡辺京二『北一輝』(朝日新聞社1978年/朝日選書1985年/ちくま学芸文庫2007年)、村上一郎『北一輝論』(三一書房1970のち角川文庫)、滝村隆一『北一輝 -日本の国家社会主義者』(勁草書房1987)、松本清張『北一輝論』(講談社文庫1996)などがある。
 本格的な理論研究が、田中惣五郎(1959)に始まるのは、「日本的ファシストの象徴」という副題にもあるように、日本の「右翼」的な運動、あるいは思想をどう理解するか、という問題があったのであろう。田中の著書が現れるまでに「超国家主義の論理と心理」「日本ファシズムの思想と運動」「日本におけるナショナリズム」「戦前における日本の右翼運動」「ファシズムの諸問題」「 ナショナリズム・軍国主義・ファシズム」などを論じた文を編んだ丸山真男『現代政治の思想と行動』(未來社)が2分冊(上巻、1956年/下巻、1957年)で刊行されている。
 本書を書き上げることになる古賀暹が東大に入学する前に、丸山の著書も刊行され、田中の著書も出版されていた。
 私たちが高校二年生のとき(1964)、オリンピック東京大会があった。そのころの学習用日本史資料集で紹介されていた2・26事件の決起趣意書を文章にうるさい級友が教えてくれた。美しいというのではない、後で言及する井上裕が「漢文調の文体それ自体の持つ韻律感、明治大正期の警世的な文章に特徴的に共通するやや激越で感傷的な表現特性」とする文章だった。あとで、北一輝『日本改造法案大綱』の緒言を土台にして作成されたものと分かった。
 北一輝は、今も論じられることが多いようである。一般書籍としては出版されていなくても、ウェブサイトで見ることもある。井上裕『私論 北一輝』(『専修大学社会科学研究所月報』№523.2007.1.20)もそうである。井上裕は、もう専修大を辞職しているが、井上が最初に北一輝を扱ったのは、大学のゼミだったと述べている。井上は「文学」作品に現れた北一輝を扱っている。武田泰淳『風媒花』(新潮文庫、初出は『群像』52/1-11)、利根川裕『宴』(中公文庫、初出は『展望』65/7-10)、三島由紀夫『英霊の声』(河出書房新社66/6)、三島由紀夫『豊穣の海 第二巻 奔馬』(新潮社、69-2)、久世光彦『陛下』(新潮社96/1)、井上は、劇画の手塚治虫『一輝まんだら 上・下巻』(角川書店,90/12)を、北一輝をかなりシリアスに捉えているので、あえて「文学」として取り上げたとしている。
 また、古屋哲夫が京都大学人文科学研究所『人文学報』に連載した「北一輝論」(1)36号〈1973-3〉、「北一輝論」(2)38号(1974-10)、「北一輝論」(3)39号(1975-3)、「北一輝論(4)41号(1976-3)、「北一輝論」(5)(1977-3)もウェブサイトで見ることができる。
 1971 年に『若き北一輝 恋と詩歌と革命と』(現代評論社)で、文学青年として北輝次郎の青年としての立体的な姿を提出して注目された松本健一は、北一輝についてのいくつかの著書を刊行していたが、2004年、屈指の『評伝 北一輝』第一~五巻(岩波書店)を刊行している。                                       
 古賀暹は、2003年頃から『情況』に北一輝について書いたものを掲載している。著書は、それを編集したともいえる。それは、「革命思想として読む」と副題があるように、少し先行して五巻本として上梓された松本健一の大著とは、趣が違うようである。
 古賀にとって、北一輝は、いわば父親の師である。戦争末期、古賀の一家は茨城県の母親の実家に疎開していたそうであるが、敗戦の8月15日に母方の祖父と一悶着を起こしたようである。心臓を病んでいた古賀の父親は、家を叩き出され、「ざまあみやがれ、お前たちの日本は負けたんだ」と祖父に怒鳴られていたという。
 著者古賀の父斌は、戦前にジャーナリストとして西田税と知り合い2・26事件ともかかわることになったという。直後、古賀たちは、文京区指谷町にあった中華民国基督教青年会の寮に住んでいた。北一輝夫人も住んでいたそうである。そこへ昭和25、6年のこと、蒋介石の中華民国の総統府秘書長だった張群が訪れたことがあったというのである。張群が中華民国の国旗をなびかせて、パトカー4、5台に先導されてやってきた光景は忘れられないという。
 著者の古賀は、2・26事件が軍国主義を生み出し、中国侵略する契機となったと学校で教わることになるが、蒋介石政府総統府の秘書長が訪ねてきたのはなぜかと疑問に思ったそうである。古賀は、北一輝と2・26事件は中国侵略を引き起こしたのではなく、それを阻止しようとしていたのではないかと考えたというのである。古賀は、辛亥革命を助けるために北一輝は2・26事件をやったのだと考えてもいいのではないかという(『情況』第三期第五巻第3号)。
 だが古賀は、北一輝は2・26事件を企てもしていないし、やってもいないと承知している筈なのに、変なことに、北が事件を起こした意図を推測している。
 1973年に古屋哲夫が「私には現在の北一輝研究の状況は、はなはだ混沌としているようにみえる。そしてそれは北の思想のなかから、何かすぐれた点をとり出そうとする意図が先走ってしまった結果ではないかと思われる」(『人文学報』36、1973-3)と述べていたことを思い出す。
 1931年9月に柳条湖事件が起こり、本庄繁関東軍司令官は、全関東軍に出動を命じて中国軍を攻撃させた。関東軍の兵力は1万400名なので、満州を占領するためには朝鮮軍からの増援が必要であったという。関東軍については、満州という日本国外にいる部隊は司令官に緊急的に対応する権限が与えられていたのであるが、植民地である朝鮮は日本国内であるので、朝鮮軍が満州に出兵することは国外出兵であり、奉勅命令と、閣議の経費支出の承認が必要であった。
 朝鮮軍司令官林銑十郎は、関東軍の要請に応じて、かねての打ち合わせに従って、平壌に駐屯している混成三十九旅団を満州に派遣する準備を命じた。21日午後、朝鮮からの混成部隊台39旅団は、列車で朝鮮の国境になる鴨緑江を越え、関東軍指令官の指揮下に入ってしまった。これは、天皇の統帥権をないがしろするばかりではく、関東軍・朝鮮軍が参謀本部や陸軍省などの軍中央の指揮下に十分服さないという点で大変な事態であった(伊藤之雄・講談社『日本歴史』22「政党政治と天皇」241頁)。
 1933年に国際連盟脱退、1934年ワシントン海軍軍縮条約破棄、1936年1月にロンドン軍縮会議脱退、2月に2・26事件が起こり、翌7月に盧溝橋事件が起こり、日中戦争がはじまった。
 張群が北一輝夫人を訪ねて来た事件を、古賀は「後に学校で習った歴史によると、2・26事件が軍国主義を生み出し、中国侵略を行った契機となっ」たといいうことに疑問を持ち続けることになったと言う。しかし、「北一輝と2・26事件が中国侵略を阻止しようとしていたのではないか」ということも考えられないかというのである(しかし古賀は北一輝と2・26事件を重ねて考えるのか、証明できるのか、また現実の日本の中国侵略をどう理解するのか阻止する手立てはあるのか)。
 ひとつひとつ、昭和の政治事件を洗っていくまでもなく、もう既に日本の軍隊は解体的な状況だったということである。ワシントン会議・ロンドン会議が開かれる前に、日本の財政は危ない状態だということを、ゾルゲが『地政学雑誌』『政治学雑誌』に投稿した論文など(みすず書房『現代史資料』24「ゾルゲ事件4」「日本の軍部(1935・8)」「東京における軍隊の叛乱(2・26事件1936・5 )」「日本の農業問題(1937・1-3)」「日中戦争中の日本経済(1939・2-3)」『日本の政治指導(1939・8-9)」などで報告している。
 古賀暹によるこの大著は、北一輝という存在と父子二代に渉って接してきた人によって書かれたものであるいうことで、他の北一輝に関して書かれたものと異なるようである。それは、最後に「北」ではなく「北さん」として呼んでいることに現れる。
 また、もう一つの特徴は、副題にある「革命思想として読む」ということである。これは、先のことほど見かけないことではないが、著者ほどの経歴の人の著書としても異色である。
 この異色さは本書に関心をもつことになった一因である。しかし、この二つのことに期待することは全くなかった。関心をもったというのは、異様な歴史的な事件が具体的な姿として比較的近くにあったということである。だから、しばしば、著書の立場からの思い入れが現れてくるのは、不快感をもたらすことはない。むしろ逆である。しかし、その思い入れが北一輝の政治や思想の叙述の障碍になっている印象はある。

二 古賀暹少年が見た、昭和25・6年ごろの文京区指谷町中華民国基督教青年会の光景
 さきに見たように古賀は、北一輝という歴史的存在を肌で感じたこととして昭和25・6年ごろ、古賀たちが住んでいた文京区指谷町の中華民国基督教青年会の寮にパトカー4・5台に先導され、中華民国の国旗をなびかせた車で張群(おそらく総統府秘書長)がやってきた異様な光景をあげる。この寮には、北一輝夫人が住んでいたそうで、中国国民党を代表する人物が訪ねてきたことに、北一輝や2・26事件が日本軍国主義を生み出し、中国侵略の契機となったとされることに疑問をもつたという。
 しかし、2・26事件は、侵略活動が切れ目のなく続き、統制もきかなくなっていた軍隊に起こった事件であった。つまり、中央の指令が無視されるような状態で青年将校たちの下克上的行動から起こった事件であった。いわば解体期に近い軍隊の性格を見ないで、なんらかの合理的な解釈をしようとするのは問題である。
 それよりも、子供時代の印象で仕方がないのかも知れないが、著者たちが戦争直後に住んでいた「寮」に現れた中国人は大陸を追われて台湾に陣取った国民党である。1947(昭和22)年2月27日、闇たばこを販売していた女性への手入れがきっかけで翌28日、台湾本省人のデモが起こり、当局が非武装のデモ隊に無差別に掃射するなどして騒乱状態になり、争いが台湾各地に広がり本省人の知識人青年など28、000人が殺害・処刑されたという。そのとき台湾には戒厳令が布かれた。戒厳令が解除されたのは、1987年だった。その2・28事件はタブー視され、日本人も多くが戒厳令があることは知っていたが事情は詳しくは知らなかった。しかし、著者(古賀)が台湾で国民党がどのような存在であるのかを認識できなかったとは思えない。
 「太陽のない町」の一角の「寮」に住む北一輝夫人に、パトカーに先導された高級車に乗った中華民国政府高官が訪れるというのは、忘れられない光景であろうが、大陸本土で、結局中国民衆に受け入れられず、劣勢を軍隊や暗殺団を利用した恐怖政治でやりくりし、従わないものは徹底的に弾圧するやり方を、逃げ込んだ台湾でもやってしまった、つまり、当初、決して拒絶的でもなかった台湾民衆に愛想を尽かされ抵抗されたのを弾圧した直後ともとれる時期である。「太陽のない町」に姿を現した張群には、関係ないことかも知れないが、国民党の難を逃れて日本へ渡って来た人(例えば直木賞作家の邱永漢など)を知らないことも無い筈の著者が、「革命思想として読む」とか「ナショナリズム」をテーマととして書いているものに、白色テロを敢行した政党の幹部の登場を代表的なエピソードとして紹介するのは、腑に落ちない。
   
三 「それははじめから社会革命としては実現不可能な政治革命の構想にすぎなかった」(吉本隆明)
   東日本大震災の年の翌年2012(平成24)年の3月に亡くなった吉本隆明が1964(昭和39)年6月の「日本のナショナリズム」(『現代日本思想体系4 ナショナリズム』,後,『自立の思想的拠点』に納める)で次のように述べている。

政治革命としてみるかぎり、明治以後の日本革命をもっとも実現近くまで導いたのは、アナキズムや日本共産党に象徴されるスターリニズムではなく、北一輝に象徴される農本主義的ファシズムである。いまだかって、日本のアナキズムやスターリニズムは、文化左翼の域を脱したことは一度もない。それは知識人の啓蒙主義の段階として考えられるにすぎない。しかし、北一輝などの政治革命は、絶対に社会革命を包括することができない先験性をもっていた。社会革命は、資本制を否定的媒介として肯定するという思想なしには、不可能であり、北らの思想は、この一点においては、文化左翼・知識人リベラリズムにさえ一歩をゆずらざるを得なかった。それははじめから社会革命としては実現不可能な政治革命の構想にすぎなかったといいうる(吉本隆明全著作集13巻-219頁)。

 吉本は、政治革命としてみるかぎり、明治以後の日本革命をもっとも実現近くまで導いたのは、北一輝に象徴される農本主義的ファシズムである」とした。1960年日米安保条約改定をめぐる国民的な運動の高揚が、実を結ばないまま退いていってしまった後の時期に書かれたものである。60年安保闘争を共産主義者同盟、全学連とと伴に突き抜けたあとにみた吉本の文は、あらためて古賀らに北一輝を革命思想として読む契機というより推進力となったのではないかと思う。国家社会主義者として北一輝を再構成しようとした滝村隆一は、吉本の発言に応えようとしていたように見えた。
 『擬制の終焉』の著者に、「明治以後の日本革命をもっとも実現近くまで導いた」のは「北一輝に象徴される農本主義的ファシズムである」とし、「日本のアナキズムやスターリニズムは、文化左翼の域を脱したことは一度もない」などと言われると北一輝に対する「幻想」が膨らむことになる。しかし、その「実現近く」とは何か。また北一輝などに象徴される農本主義的ファシズムの「革命」とは何か。
 「実現近く」とは、現実の陸軍将兵が首相官邸・陸軍省などを1500の兵が指揮されて襲撃したことである。しかし、小隊長などに指揮されたのは殆ど徴兵された兵士たちである。革命の兵士では全く無い。「実現」など見当もつかない。青年将校たちの間では、直前に「尊皇討奸」のスローガンが確認されたようであるが、社会革命の構想はもちろん、政治革命たり得る趣旨の片言も語られていない。「尊皇討奸」なる珍妙なスローガンと1500の将兵をもって官邸や陸軍省を攻撃し、政府高官などを殺害したのである。

四  「実在の人格である国家」?
 革命思想として読む、と副題した古賀暹の著書であるが、如何に北一輝が饒舌で文に長けているとしても、ハーバート・スペンサーをなぞった「同化」と「分化」の進化論的叙述は、あまりにも粗雑である。どのように革命思想として読むことが可能かと思う。
 古賀の本書では「実在の人格である国家」が主要なスローガンのように繰り返し登場する。
 どうして、本書では、「実在の人格である国家」が繰り返されるのだろうか。私たちがなじんでいるのは「国家とは、支配階級の諸個人がそういう形で彼らの共通の利害を押し通す、そして一時代の市民社会全体が自己を総括する形式であるから、共通の諸制度はすべて国家によって媒介され、政治的な形式をもたされることになる」という『ドイツ・イデオロギー』の叙述である。「一時代の市民社会全体が自己を総括する形式」だとするのである。実在するとするならそれは市民社会である。
吉本隆明は、1965(昭和40)年の「自立の思想的拠点」(『展望』75)で次のように述べた。「北が天皇制を逆手にして資本主義を廃絶しょうとする方策をあみだし、権藤成卿が天皇制国家権力と反国家権力としての農村共同主義を折りあわせちようとして〈国家〉と〈社稷〉というふたつの概念をあみだしたというようなことは、古典マルクス主義がかんがえるよりもはるかに深刻な意味をはらんでいる。なぜならば、国家本質論の内部では、キリスト教社会主義の存在を認めるならば、天皇制社会主義も矛盾なしに認めねばならないという側面を超国家主義はもっていたからである。講座派や労農派が天皇制国家の把握に失敗したのは、宗教的な疎外の累進した共同性として法・国家の本質をつきつめるという面が欠落していたからであり、丸山学派がこの把握に失敗しているのは、国家本質論をもっていないうえに、古典時代のリベラル・モダニズムの戦争体験を刻印されていたからである」という。
 吉本隆明は、講座派や労農派も丸山学派も「宗教的な疎外の累進した共同性」としての法・国家の本質を突き詰めていないからだめだと言うのであるが、吉本は民俗学者赤坂憲雄から、次のような指摘をうけている。

 ①昭和天皇の葬儀において、天皇家のもっている万世一系の血のカリスマを再認する、あるいは公認するための儀礼として新しく組織され、創られているのではないか。
 ②ある考古学者が、その葬儀に日本文化の伝統とか皇室のもっている文化の古式ゆかしさが見出されたと言って感激、称揚しているのは倒錯である。
 ③また、天皇制が天皇制国家として誕生していらい千数百年間は仏教式の葬儀が行われてきた。その千数百年の仏教的な葬儀の伝統を捨象し、新たにつくられた天皇家の葬儀を見て、皇室の伝統とか、古式ゆかしさを感じるのは倒錯である。
 ④たしかに、古代の文献などをみて擬似的な古代を創出しているのだから、古代的なものを見出すのは当然である。だから、それを元にして天皇家の伝統とか、民俗レヴェルの祭祀との関係づけをストレートに論じるのは誤りではないか(吉本隆明/赤坂憲雄『天皇制の基層』(作品社 1990年/講談社学術文庫 2003年)。

 赤坂の話を聞いた吉本は、直ちに「断じて承服できない」と言った。吉本にとって、天皇は「畏怖する存在」だったのである。丸山学派が「古典時代のリベラル・モダニズムの戦争体験を刻印されていたから」駄目だというのと表裏の関係のようである。
 他に対して、天皇を恐れ多いと脅迫する者ほど、天皇を「道具」としてしか見ていない例は多々出てくる。
 例えば、昭和6年2月の衆議院予算委員会でロンドン軍縮条約について発言していた幣原喜重郎が天皇の批准に触れた途端、傍聴席にいた政友会幹事長の森格が幣原を指さして「幣原!取り消せ!」と絶叫したという。この森は、陸軍の一部が「(昭和)天皇は凡庸で困る」と言っていると近衛文麿に告げた男である。自らは畏怖などしない者が、「天皇に責任を帰し奉るとは何事であるか」「単なる失言ではない」「総辞職せよ」と攻め寄るのある。
 森は天皇を臣民を畏怖させる人形として奉っているのである。それは、明治になって作り上げたものにすぎない。
 明治の国家も確かに法人とも言えるが、「実在の人格である国家」といって、自然に成長、復活するようなものでもない。
 赤坂憲雄が、天皇家の主要な儀礼である大嘗祭にも大きな断絶と空白あるいは絶無があること、みんなが想定する農耕儀礼とも異なること、また、明治以前の天皇家の儀礼は仏式であることなど、要するに、吉本がいう「万世一系の天皇の帯びている呪力の長い時間性」なるものを否定し、天皇制にまつわる儀礼などは、明治の作為であると赤坂が述べたとき、吉本隆明は、知識的には得るところはあるけれども、それ以上には何も得るところはないと言った。天皇が畏怖する対象であることに何の変わりもないというのである。この言い方は辛い。赤坂の言ったことは、吉本にとって「知識的には得るところあり」と済ますことが出来たのか。この「知識」は、吉本にとって、対応し難い衝撃であった筈である。吉本には「畏怖の対象であった」という感覚しか防御として残っていなかったのである。
 明治の国家は「実在していた人格である国家」ではなく、明治になって成立した国家だということである。けれども、明治新政府は、古賀が言うように(282頁)、武断的行為で成立したのではない。1868年に始まった戊申戦争は、1869年の5月の函館五稜郭の闘いで終わる長期戦であったが、戦争は、幕府が大政奉還し、「新」政府が徳川に辞官納地を迫ったことから始まった。実在の人格が変幻したのではない。
 過程での薩長同盟は画期的だったが、同盟が成立しうる条件が必要になる。薩英戦争はイギリスが薩摩の力量を認識する戦争であったが、原因の生麦事件は攘夷行為ではない。何年か前まで、薩摩の行為を攘夷活動と書いている日本史教科書があった。新政府の成立までに、薩長同盟もあり、諸公会議もある。図式どおりにはいかないものである。五箇条の御誓文といわれるものなども、諸侯会議等を念頭に練られていたものである。
 慶応2年9月に西郷宛に出された大久保の書簡には「幸にして将軍職御辞退固々申上候て此義は諸侯来会までは相動き申まじく候付誠に機会失ふべからずと存候間、共和の大策を施し、征夷府の権を破り、皇威興強の大綱相立候様御尽力伏して冀ひ存候」とある。
 大日本帝国憲法は明治22(1889)年に発布された。第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあって、具体的な規定ではない。第3条は「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」とある。これは立憲君主制の1830年のフランス憲法第12条、1831年のベルギー憲法第63条とほぼ同趣旨である。天皇の具体的な政治行為の手続き規定も無い。神がかり的専制君主を想起しているわけではない。
 問題は例えば、天皇は第5条「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」で立法権を行うということになっている。議会は協賛をするだけだと教えられた。しかし、伊藤博文たちの原案では「協賛」ではなく「承認」とあったのである。君主を臣下が承認するというのはどうかということで、「輔翼及協賛」とされ、「協賛」となったようである。
  この憲法は制定されてすぐに、解説書としての『大日本帝国憲法義解』が作成され、その英訳版Commentaries on the constitution of the empire of Japan も作成され、欧米に頒布された。そこでは、「協賛」はconsentとなっている。美濃部達吉『憲法講話』は議会の同意がなければ法律を定めることはできない、また同意を得ないものを天皇が裁可しても有効に成立することはできないと述べている(76頁)。これは、美濃部が意図的に解釈したというようなものではない。制定された憲法を理解しただけである。
 「実在の人格である国家」が勝手に進化していくとは長閑な話である。伊藤博文たちは、欧米諸国に遜色ない憲法を制定しないと国際的にも国内的にも活動できないと考えたのである。日本では何が犯罪であるか、その犯罪をどのように処理するのか、犯罪者の逮捕・拘束など制定されたものは皆無に等しいといった状態だったのである。
 それより前、明治4(1871)年、岩倉具視を全権大使とする使節団が米欧へ出発した。不平等条約改訂のための予備交渉として急ぐことであったのである。裁判のこともそうであるが、直接な問題は関税自主権の回復であった。新政府は明治4年に地租改正を行っている。関税自主権が無いところで、国家財政は農業生産を当てにしなければならなかったのである。ひきあいに出されるフランス革命に際しては、1793年のジャコバン派の国民公会のときに封建地代の無償廃止が行われていた。大久保や伊藤たちはフランスなどとは全く異なる遅れたところでの深刻な状況と格闘していたのである。「実在する人格としての国家」の展開を夢想していたわけではない。

五  久野収・板野潤治などの「顕教・密教」論
  佐高信が敬愛する久野収の思いつきの一つに明治憲法解釈における「顕教と密教」論がある。久野収が1956年に鶴見俊輔との共著として出版した『現代日本の思想-その五つの渦-』(岩波新書)で述べたことである。久野収の解釈によれば、伊藤博文は、国民には、権威主義的な絶対君主としての天皇を信奉させ、一方で国政を運用する秘訣としての立憲君主説を採用した。つまり、たてまえとして、絶対君主を信奉させたのが顕教で、支配者層の申し合わせとしては、つまり密教としては、立憲君主制だったとする。「しかし、膨張する軍部だけは、密教のなかで顕教を墨守しつづけ、文部省をその支配下において、顕教による密教征伐を企てる。国体明徴運動がそれである。その逆に、密教によって顕教を征伐しようとしたのが北一輝である」(佐高信『面々授受 久野収先生と私』(岩波現代文庫)10「顕教と密教」133-4頁)。
 佐高による紹介でも、久野収の叙述でも、誰でもすぐに変なことに気づく筈である。顕教と密教とは、仏教でのいわば教義学と儀礼のような関係をいうものと考えている。久野の言い方では、たてまえと本音のような言い方である。しかも、たてまえ、つまり顕教になぞる方が呪術風で、密教になぞる方が合理的であるとなるから例えとしても良くない。
 少しでも明治憲法を見てみれば、変なことは言わなくても済んだ事だと思うのである。
 ところが、上記のような、ずぼらな思考は佐高で終わらずに続いているのである。本書の参考文献に板野潤治の著書があった。『明治デモクラシー』(岩波新書,2005年)である。板野潤治・田原総一郎『大日本帝国の天皇主義』(小学館,2006年)である。少し気を付けて読めば問題は無いのだが、素朴な誤解が敷衍されている状態が続いているのである。

六 北一輝を「革命思想として読む」ことに、古賀は何の疑念も生じなかったのか
 古賀暹に北一輝を「革命思想として読む」ことを推したのは、社会革命としては実現不可能であるけれども「政治革命としてみるかぎり明治以後の日本革命をもっとも実現近くまで導いた」のは北一輝をはじめとする農本ファシストだったとする吉本隆明の言辞が主要なものだったであろう。
 しかし、「分化と同化の歴史」のような進化論を革命思想と読むには違和感がある。「実在する人格としての国家」など存在し得ないことを赤坂憲雄が吉本隆明を諭した、というより「人格としての国家」ではなく、天皇の祭祀そのものがもう中絶していたことを述べたのである。もっとも吉本は「断じて承服できない」と言っていた。
 「日本改造法案大綱」では、天皇大権の発動によって三年間憲法を停止し両院を解散し、全国に戒厳令を布き、華族制を廃止し、皇室財産の国家下附を行うという。
 戒厳令施行中現時の各省の外に生産的各省を設け、さらに無任所大臣数名を置きて改造内閣を組織す。戒厳令施行中普通選挙による国家改造議会を召集し改造を協議せしむ。
  「華族制の廃止」というのは、「天皇と国民とを阻隔し来れる藩屏を撤去して明治維新を明らかにす」るためだという。明治維新を大化改新をなぞって構想したことである。
 改造内閣には現時の各省の外に銀行省・航海省・鉱業省・農業省・工業省・商業省・鉄道省を設ける構想であるが、現状の分析等がなされたわけではない。
 私有財産限度・私有地限度を設けて超過額を再配分等するのであるが、「天皇は戒厳令施行中、在郷軍人団をもつて改造内閣に直属したる機関とし、もって国家改造中の秩序を維持すると共に、各地方の私有財産限度超過者を調査し、その徴集に当らしむ」とする。 改造法案を遂行するには、この在郷軍人団がどれだけやれるかということになる。次の二つの注がある。
「注一 在郷軍人はかって兵役に服したる点において国民たる義務を最も多大に果したるのみならずその間の愛国的常識は国民の完全なる中堅たり得べし。かつその大多数は農民と労働者なるがゆえに、同時に国家の健全なる労働階級なり。しかしてすでに一糸紊れざる組織あるがゆえに、改造の断行において露独に見るごとき騒乱なく真に日本のみもっぱらにすべき天佑なり」。
「注二 ロシアの労兵会およびそれに倣いたるドイツその他の労兵会に比するとき在郷軍人団のいかに合理的なるかを見るべし。在郷軍人団は兵卒の素質を有する労働者なる点において、労兵会の最も組織立てるものとも見らるべし」。

 在郷軍人団は、注二に明らかなるように、ロシアの労兵ソヴィエト、ドイツの労兵レーテを念頭においたものである。ソヴィエトとかレーテは評議会と訳されるように、自由意思で形成された組織である。在郷軍人は「兵役に服したこと」を要件とする。非常に隷属的に使役されることが条件である。そのような条件を基礎とする隷属的団体はソヴィエトとかレーテとは真逆の性格をもつものである。

七 北一輝、西田税が処刑されたわけは何か
 北一輝、西田税が、なぜ処刑されたのか、その合理的な理由は、あきらかになっていない。死刑判決を受けているものは、二・二六事件の首謀者たちである。彼らは行動を起こすことを具体的に合意し、部隊を動かした。しかし、北一輝と西田税にはそのような事実は一切無いのである。首謀者である将校たちが、北一輝『日本改造法案』を読んだことがあったり、西田が、将校たちと北との仲介であったとしても、それが、北らが反乱の首謀者として処刑されることにはなりえない。
 NHKのドキュメンタリー番組で、事件首謀者たちの拠点になった宿舎の電話盗聴録音が放送された。「キタだ、キタだ」とせわしく喋る男の声と、ちょっと、戸惑う将校(安藤)の声があった。「マル、マル、カネはいらんかね。」と続く。最初聞いたとき、北一輝がこんなかたちで、事件に絡みたがっているのかと思った。と同時に、キタと称する男に非常に軽い印象を多くの人がうけたようだ。しかし、電話をうけた安藤は、最初から、北とは信じていないようだった。そして、中田整一『盗聴 二・二六事件』(文藝春秋)によれば、この電話のとき、北一輝は、すでに東京憲兵隊に逮捕されていたというのである。
 中田は、2・26事件の裁判官もつとめた元参謀本部参謀石井秋穂の言葉を紹介している。
 「……そこで、寺内陸軍大臣が裁判官の班長をみんな集めて景気づけをやった。”北、西田を死刑にせよ”とはっきり言ったわけではないが、北、西田が悪い、青年将校はあいつらにくっついていっただけだ、ということを間接的な表現で言うわけですよ。」
 中田は、「二・二六事件の際、青年将校らに激励の電話を入れた北一輝と西田税を極刑に処す、それは最初から陸軍中央の方針であった。『かかる不逞の輩に、純真な将校が踊らされて理非を誤ったのが今次叛乱の実情なり』陸軍は北の『日本改造法案大綱』を短絡的に結びつけ、その著者を事件の黒幕として断罪した。」と述べる。
 『新訂 二・二六事件 判決と証拠』(伊藤隆・北博昭共編、朝日新聞社1995)にある判決理由には、その「激励電話」のことはない。北と西田を介した将校たちの交渉が記載され、そこには、しばしば「霊告」の内容が記載されている。それは、他の供述や押収された『霊告日記』により裏打ちされるものであろう。「霊告」というのは、自らを無責任とするための方便かも知れない。霊媒師を信ずる人はあまりないだろう。
 中田は、陸軍首脳が、「短絡的に結びつけ」たとするが、臨戦装備の軍隊が、見張り警官程度の防備しかない首相官邸などを機関銃などで襲撃し、政府要人や警備の警察官らを殺し、政府中枢を制圧したのは、天皇が激怒するまでもなく、大不祥事である。粛軍どころではない。既に、陸軍は実質解体的あったといえる。松本清張は「下克上」と表現するが、陸軍の存在自体が深刻な状態なのである。中田は、北・西田に同情的に「短絡的に結び」つけられたとするが、陸軍は、そうでもしないと、体面が保たれないほど深刻だったのである。
 かと言って、北・西田が被害者であったかというと、そうとも言えない。北とか西田のようなフィクサー的存在は、確かに陸軍が、罪をつけて流す人形(ヒトガタ)、流雛として利用したものであるが、西田はまだしも、北はあきらかに、そういう情況で生活の資をえていたことは間違いない。問題は、北らの存在によって、事件が意味するところのものが誤魔化されてしまったということである。
 皮肉なことに、このことによって北一輝に対する虚像は確実なものになったと言える。そして、崩壊日本陸軍の問題は、それほど問題にされることもなく終わってしまった。
 2・26事件からほぼ1年4ヶ月後(1937/7)盧溝橋で日中両軍の衝突が起こり、宣戦布告無しに日中戦争が始まった。

八 必要とされる批判と分析・古賀は本当に革命思想として読めたのか?
 古賀清志海軍中尉らの独断によるテロである5・15事件と異なり、2・26事件は、組織的に1500名近くの兵士を動員して首相官邸や陸軍省・警視庁などを襲い、機関銃などを使用して、政府要人を殺害し、霞ヶ関・三宅坂一帯を制圧した。結果として国家自体を迷妄の淵に追いやり、国民の財産や命も奪うことになるテロ行為であった。とても革命運動とは言えない。 
 「昭和維新断行・尊皇討奸」というスローガンは君側の奸を討つことで、大御心の発現をみるとする錦旗革命的な表現である。それで第一次襲撃目標に首相岡田啓介・侍従長鈴木貫太郎・内大臣斎藤實・大蔵大臣高橋是清・前内大臣牧野伸顕・元老西園寺公望・教育総監渡辺錠太郎を定めた。岡田は襲撃したが、秘書官松尾大佐が身代わりに殺害された。鈴木は襲撃され瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去り辛うじて一命をとりとめた。斎藤・高橋・渡辺は殺害された。牧野は辛うじて難を逃れた。国民を奈落に追い落とすテロである。
 この一連の動きに北一輝らの直接の意向は見当たらない。岡田首相らの「側近」政治家を殺害などで排除したあと、どうするのか。北一輝は霊告日記で真崎甚三郎を浮かばせているが、ほとんど取り合われていない。
 「改造法案大綱」によれば、天皇大権の発動によって、全国に戒厳令が布かれるのであるが、戒厳令は、決起軍を叛乱部隊として鎮圧するために出された。これで、決起軍は鎮圧される側になって、事は終わったと思ったようである。
 吉本隆明は、「政治革命としてみるかぎり、明治以後の日本革命をもっとも実現近くまで導いたのは」、「北一輝に象徴される農本主義的ファシズムである」と述べるのは、2・26事件と北一輝らが不可分ということを前提としているのであろう。確かに決起の首魁である磯部や村中やその他の者にとっては北一輝の著書は、情を煽るものであったろう。吉本が「もっとも実現近くまで導いた」というのもそういう状況に由来することがあるのだろう。
 それにしても、2・26事件で殺害された蔵相の高橋や真崎の国体明徴に関する訓示を批判した教育総監の渡辺、危ういところを免れた首相の岡田、命をとりとめて終戦を導くことになる鈴木にしても、相当の人物である。その人たちを殺害し、あるいは殺害を謀り、政治の中心から排除したあと、日本はいよいよ悲惨な状況を向かえることになる。とても革命とはいえない。
 もちろん、「日本改造法案大綱」はこの時期に書かれたものではない。しかし、決起して、処刑された将校たちは、全員『改造法案』を読んでいるのである。その上で首相官邸や陸軍省・警視庁を襲撃しているのである。   
 あいもかわらぬ変わらぬ政治ゴロを継続しようとしていた北一輝などは別にして、決起部隊の、行動趣旨も政治意図も分からない。改造法案では、戒厳令の下で改造を断行する筈ではないのか。
 決起部隊にしても、とくに東北日本の農村部の疲弊と回復が念頭にあり、それが「昭和維新」のイメージにも連なる筈である。
 『改造法案大綱』にはロシアの「労兵会」をなぞっているのがある。そうであるなら、当然のことながら、軍備による財政圧迫や生命の危機から解放される「平和に関する布告」や農民革命を認める「土地に関する布告」を相継ぎ公布したロシア革命とのギャップは大きい。
 北の著作などが20世紀の世界史的事件を把握できずに、大化改新や明治維新を「理念」として想定し、北や決起軍の動きをみると、とても「日本革命をもっとも実現近く」に導いたとも、来たとも思えない。
 韓国では1972年10月朴正煕大統領が「大統領特別宣言」なるものを発表し「10月維新」を断行し独裁色を強めた。
 内田樹の面白くもない戯文(『内田樹の研究室』)に「あの話を若い方にご理解いただくためには、明治維新から説き起こさねばならぬのだよ。少し話しが長くなるので、まあ、縁側に座って、お茶でも飲みながら聴いてくだされ。 新左翼の学生運動というのは、幕末の《攘夷》運動の3度目のアヴァターなのだ」と書いているところがある。出来の悪い戯作者のような文であるが、明治維新のことも、攘夷運動のことも全く頓珍漢理解で書いている。「維新」とわけわからず言及する一例である。
 「維新」というと、「大阪維新の会」とか「日本維新の会」いうのがここ数年、政界をかき回した。維新を名付けるのであれば、「昭和維新」や韓国の「維新体制」も視野に入れないといけない。大阪維新の吉村大阪市長は、サンフランシスコ市に対して姉妹都市提携を解消する意向の文書を送付したようであるが、維新の橋下前市長が米軍海兵隊司令官に性風俗業を利用することを勧めることを言ってあきれられたことも含めて、しっかりと考えてもらいたいものである。

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