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2016年5月26日 (木)

日本国憲法について

 2012年末に再登板になった安倍晋三首相が改憲への願望を滾らせてきていた。それが祖父岸信介への思いからだとすると、国民とっても、日本にとっても迷惑な話しである。祖父岸信介が太平洋戦争開戦時の東条内閣での地位を理由にA級戦犯の嫌疑を受け、巣鴨拘置所に収監され、48年12月に釈放されたあと、公職追放された。その間に日本国憲法は成立した。戦後に開かれた帝国議会には、日本で最初に女性代議士が登院した。その人数は39名で、いまだに史上最多である。しかも、今の与党の女性代議士の多くがスキャンダルまみれの状況は、戦後すぐの代議士たちとは、志も現状把握能力も質的に違うようである。この議会で審議された憲法を占領軍の押しつけであるとか、憲法は日本国民が自主的につくるものだから、などという理屈をこねるのである。憲法前文にもつまらない嘲笑を浴びせているように聞こえることがある。ハイスクールの作文だというのである。「戦死」という病死者と餓死者など犠牲者が日本だけでも何百万人と出た戦争である。当時も飢えがいわば日常であった。つまり戦争の惨禍が日常であるときに起草されたものである。
 日本国憲法前文は、趣旨を把握した文にするように、長いセンテンスの複文の構成に作りあげられた苦心の作品であった。ところが、この文が幾つかの節が並列的にならべているのを、高坂正堯は、拙い翻訳だと大江健三郎に早口の関西弁でねじ込んでいたのは確か1960年頃のテレビ番組だったと思う。これは、全くの難癖である。未だに、その拙い悪口を真似してマスコミに売っている者がいる。憲法前文は、憲法制定の事実過程と、趣旨の要件を、立体的に述べ、それを実現する意欲を表現した文は、それ自体がリズムをもち、確かに名文であった。それは、小学校高学年、中学校初年生でも覚えてしまうことからでも推測できる。わけの分からない教育勅語のようなものを明文だと思い込んでいたのだろうか。
 珍妙な理屈を、正当なことを言っていると思っている様子は、学者としての資質とか、政治家としての資質を問題にする以前の問題である。このような総裁を駆除できない自民党、この自民党と支える公明党、これらを政権与党としてしまっている危ない日本と思わざるを得ない。
 戦後、GHQに肯定的に受け取られなかった憲法草案は、宮沢俊義案、松本試案、佐々木憲法草案などがある。いずれも戦前から当然ながら天皇機関説を主張してきた人たちでそのうえで国体は維持されたと思っているから、とくに抵抗なく新憲法案を書いていたのだろう。これらの憲法案をみたうえで、GHQから提起するといういきさつがあったので、占領軍につくられたという確信をもったのだろう。
一 日本国憲法について
 かつて、京都大学法学部では憲法の講義が一番面白く無かったのだと仰る先生の話を聞いたことがある。かつてのあの佐々木惣一が担当していた時代ではなくて、その後の担当者の時代の話のことである。「新憲法」という言葉を使うと、「新憲法ではない改正憲法だ」と訂正されたという。
 1946年に成立して1947年5月3日に施行された日本国憲法については、戦後の帝国議会で審議を経て成立したのにも関わらず、戦後、占領軍に押しつけられたものだという言い方を固持し、自らの政治主張の根拠にする人たちもいた。戦後の改革や審議を無にするやり方、というより妄想に近い記憶喪失は、なかば精神疾患にも似ている。というのは、戦前、軍人が内閣総理大臣として組閣し、アジアへの侵略から破滅的な戦争に突入し、国民と、アジアの人々を地獄への道連れにした過程に対する反省が戦後最初にあった筈なのである。それについての自覚が無いのである。先の安保法案が議題になった国会で、ポツダム宣言についって基本的な質問をされて、その答えに窮していた安倍晋三首相が新聞で取り上げられていた。
 戦前の過酷な政治状況が話題になるとき、昭和の初期は、それほどでもなかったと言われる。それは大正13(1924)年の護憲三派による加藤高明内閣が出現してから昭和7(1932)年に時の首相(犬養毅)が陸軍の青年将校に自宅で射殺され(5・15事件)、内閣が総辞職するまで「憲政の常道」といわれた政党政治が続いた。それを言われるほど悪くはなく穏やかな日が続いたと言っているのかとも思う。
 現職の首相が白昼、現役の陸軍将校に射殺されたり、海軍の部隊に首相官邸や陸軍省が包囲された時期とは、当時の人々にとっては、「憲政の常道」が行われた時期は違うのだろうが、山東出兵が相次ぎ、張作霖が爆殺された。軍中央の命令も、陸軍出身の田中義一の内閣の命令も無視された状態は、もうかなり危ない。
 1926年に北伐を開始していた国民政府軍は、27年に南京に国民政府をたてて蒋介石が主席になった。1928年に北伐を再開し5月には、山東出兵を繰り返していた日本軍と済南で衝突した。6月、関東軍河本参謀らが奉天引揚げ途上の張作霖を列車もろとも爆破し殺した。この年の4月には東大新人会や各大学の社研が解散命令をうけ、京大教授河上肇が辞職になり、東大大森義太郎・九大石浜知行らが大学を追われている。
 1931(昭和6)年9月18日、柳条湖の満鉄路線爆破を口実に、関東軍が軍事行動を開始した。21日朝鮮軍が満州へ越境出動した。このとき、朝鮮軍は当然、奉勅命令をもっていない。違法である。24日政府は不拡大方針を声明した。10月24日国際連盟理事会は満州撤兵勧告案を13対1(反対は日本)で可決した。翌32年1月3日に日本は錦州を占領し、7日にスチムソン米国務長官が満州の新事態を承認しないと日中両国に通告する。28日に上海事変が起こり、2月9日に前蔵相井上準之助が血盟団員に射殺される。29日にはリットン調査団が来日し、3月1日に満州国建国宣言があり、5日には団琢磨が血盟団員に射殺された。
 先に見たように、この後、5月に5・15事件がおこり、翌1933年の2月には国際連盟を脱退し、5月に鳩山文相は瀧川幸辰京大教授の休職を要求し、35年には貴族院で菊池武夫が美濃部達吉の天皇機関説攻撃を行っているように、混迷を煽るような出来事がいよいよ盛んになる。
 1914(大正3)年に勃発した第1次世界大戦は、主要な国々が総力戦体制で参戦した。勃発が複雑な国家関係・民族関係を背景にしており、この大戦を経て、ロシア帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国などが姿を消し、あるいは姿を変えた。多くの民族国家が成立した。1919年のはじめにパリで講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約をはじめ一連の講和条約が締結され、ヴェルサイユ体制とよばれる国際秩序が成立した。
 1921年にアメリカ大統領ハーディングの提唱で、合衆国・イギリス・フランス・日本など9か国が参加するワシントン会議がひらかれた。この会議がもとになってつくられた国際秩序をワシントン体制と呼ぶ。太平洋方面での植民地体制の維持、中国の門戸開放などを重要なポイントとする。ヴェルサイユ体制と並ぶ1920年代の国際秩序の柱になった。ワシントンで当時の主攻撃兵器の主力艦保有比率を英・米・日・仏・伊に5・5・3・1.67・1.67と定めるワシントン海軍軍備制限条約が調印された。平和をのぞむ風潮に対応し、軍拡競争の歯止めとなった。
 同趣旨の項目をみていくならば、1927年のジュネーブ軍縮会議がある。日本・イギリス・アメリカ間での補助艦軍縮を討議するがフランス・イタリアは不参加で合意に達せず解散することになる。
 1928年米国務長官ケロッグと仏外相ブリアンが中心となって「国際紛爭の解決のための戦争を拒否する」という趣旨の条約を8月27日パリで15か国が調印した。後に63か国が参加した。
 日本も田中義一内閣の内田全権が調印した。翌29(昭和4)年6月27日「帝国政府は1928年8月27日巴里に於て署名せられたる戦争抛棄に関する条約第1条中の『其の各自の人民の名に於て』なる字句は帝国憲法条章より観て日本國に限り適用なきものと了解することを宣言す」とした。しかし7月2日に田中内閣は総辞職した。不戦条約の公布は7月25日で、副書は内閣総理大臣濱口雄幸、外務大臣男爵幣原喜重郎となっている。
 1930年ロンドン軍縮会議で補助艦保有比率を英・米・日で10・10・7弱で調印された。
 1931年9月18日柳条湖の満鉄線路爆破事件を口実に関東軍が軍事行動を開始した。21日には朝鮮軍が満州へ越境出動した。24日に日本政府は不拡大方針声明を行っている。
 
二  2016年2月25日の報道ステーション
 2月25日の報道ステーションで、元中部日本新聞政治部長の小山武夫氏が幣原喜重郎にインタビューし、日本国憲法の天皇制と9条の戦争放棄は幣原がマッカーサーに提案したものだという証言をしたというテープをジャーナリストの鈴木昭典氏が発見されたというスクープが流された。
 この幣原の話は、憲法調査会事務局に保存されている「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について ー平野三郎氏記― 」(衆議院議員であり、幣原の秘書官であった平野三郎氏が幣原が亡くなる10日ほど前の、1951〈昭和26〉年の2月下旬に聞き取りをされた)とも整合することである。幣原の提案だとすることについては、マッカーサーの書簡にもあるという。
 今回、岸総理時代の憲法調査会での音声テープが幣原が自分がマッカーサーに提案したのだと述べていたことが記録されていた。報道ステーションとしては、占領時代の占領軍による押しつけ憲法だという思い込み信仰に大きな反証を提出したわけである。
 
三 憲法第9条
 日本国憲法は、占領期の占領期の押し付け憲法だとしたいほど、旧憲法とは違ってみえたのだろう。宮沢案・松本案にしろ佐々木惣一案にしろ、もとは、天皇機関説で、天皇親政など梅雨ほども信じない人たちが起草したものである。
 憲法と戦争のことだけを言うのなら、明治憲法は、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ…」(第4条)とか「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第11条)とあるが、具体的なものは一切なく「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第3條)とある。政治的に無責任の存在である。これは、現実の兵士がそう認識していたというわけではない。満州事変の18日の柳条湖事件の3日後で、林銑十郎の朝鮮軍は奉勅命令をまたず、越境攻撃している。「越境将軍」と言われるほどの有名な違法ぶりだが、その違法不敬ぶりは問題になっていない。逆に石原莞爾などから「期待」され内閣を組織している。
 宮沢・松本・佐々木も基本的に明治憲法の内容でも、国体は尊重されるのだから大丈夫だろうと思ったのだろう。しかし、実際には、日本軍は、それほど尊王心は無いのである。今の政権も、懸命に国民の命と生活を考えるよりも、ことあらば天皇を「利用」することを考えるばかりで、尊王心などは勿論無いのは伊勢志摩サミットの開催ぶりを見ればわかる。
 歴史をみれば、張作霖爆殺事件について、真相究明の天皇命令をサボタージュし続ける田中義一を叱る天皇に反発し秩父宮に期待する動きもあったという。
 平野三郎氏の記録からもおおよそが知られる、マッカーサーと会談した「幣原元首相が天皇制維持を要望し戦争放棄を提案」しそれをうけて着手したGHQ憲法草案には象徴天皇と戦争放棄が条文化され日本国憲法のもとになったという。幣原は外務大臣時代から協調外交を展開し戦争回避を進言続けた。戦争放棄は「決して強いられたんじゃない」と語っていたということです。幣原外交を協調外交というのはともかく「軟弱外交」という言い方は田中義一の「強硬外交」との対ですが、目立つものとして軍縮会議・条約があります。軍縮は日本だけでなく、列強にとっても課題だった筈です。なかでも日本では、ゾルゲが公開の資料を基にしてドイツの『地政学雑誌』『政治学雑誌』に投稿した論文など(みすず書房『現代史資料』24「ゾルゲ事件4」「日本の軍部(一九三五・八)」「東京における軍隊の叛乱(二・二六事件一九三六・五 )」「日本の農業問題(一九三七・一-三)」「日中戦争中の日本経済(一九三九・二-三)」『日本の政治指導(一九三九・八-九)」などで報告しているように財政は危ない状態(国家予算の6-7割が軍事予算)であったわけである。
 不戦条約(提案・締結は田中内閣)は、平和主義というより、国家の生存問題であったとも言いうる。負担になるばかりの巨艦製造をしていたようだが、新設の理学部などで、大急ぎで研究・開発を進めた新型爆弾やレーダーも到底、追いつくどころではなく、基礎研究の段階だった。
 「軟弱外交」というのは、根拠の内実を持たないものが、正当と思われる相手に投げかける愚劣なスローガンで、国をも亡ぼすものである。
 憲法第9条の元になった「戦争の放棄」は、突然、戦後になって占領軍によって押し付けられたものではなく、戦前から、具体的には1928(昭和3)年から条約として表現されていたものである。イギリスや、アメリカは、自衛権云々といって、その有効性を自覚していなかったようだが、それでも、日本は満州事変で、不戦条約に抵触したと思われる。
 日本国憲法制定時の首相吉田茂が憲法第9条に関連して「実際の戦争では侵略戦争も自衛戦争と言うんだ」と言ったのは、この不戦条約以降の議論を踏まえて言っていたのである
 それを、占領軍の押しつけだとかなんとか言うのは、病的な精神状態としか言えない。

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