2018年2月19日 (月)

感想・古賀暹『北一輝 革命思想として読む』(御茶の水書房2014年6月)

   古賀暹氏が『情況』に掲載されていた北一輝についての連作が大作の著書として刊行されたことを知った。米田隆介氏の挨拶で出版記念会も開かれていたようである。著者の長年の思いが著書として刊行されることになったのは喜ばしいことであるが、気になるところもあるのを申し上げておきたい。                                                                蘆田東一  2015年6月 6日 (土)

  以前に2・26事件について気になっていたことを古賀氏の著書が出版されたことを機に書いてみたが、非常に不十分だったので少し訂正してみた。(2018/02/19)

一 北一輝という幻影
 北一輝は、2・26事件に関連した思想家として刑死した人として有名である。古賀暹の著書の巻末にある引用文献の『北一輝著作集』第一~三巻(みすず書房)に主要な著作はある。
 1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校が歩兵第一連隊・第三連隊・近衛第三連隊らの兵1500名を動かし、陸軍省や首相官邸を襲撃占拠し、蔵相高橋是清・内大臣斎藤実・渡辺錠太郎教育総監らを殺害(決起側は岡田啓介首相と秘書官を間違えて殺害)し、鈴木貫太郎侍従長に瀕死の重傷を負わせた。これは、近代日本の国家制度整備後の最大の内乱事件(2・26事件)である。
2・26事件は、北一輝の影響のもとに行われたとされていた。最近は資料がかなり明らかにされてきたが、事件は軍事法廷で処理されたために分からないことが多かった。そして、2・26事件で民間人ながら主犯か黒幕のようにして処刑された北一輝・西田税は、兵を指揮命令できる筈はないので、逆に、思想や意図が注目されることになった。
 北一輝に言及した著書は多いと思われる。表題に「北一輝」とあるもので、よく参照されるのが、田中惣五郎『北一輝-日本的ファシストの象徴』(未来社1959)、渡辺京二『北一輝』(朝日新聞社1978年/朝日選書1985年/ちくま学芸文庫2007年)、村上一郎『北一輝論』(三一書房1970のち角川文庫)、滝村隆一『北一輝 -日本の国家社会主義者』(勁草書房1987)、松本清張『北一輝論』(講談社文庫1996)などがある。
 本格的な理論研究が、田中惣五郎(1959)に始まるのは、「日本的ファシストの象徴」という副題にもあるように、日本の「右翼」的な運動、あるいは思想をどう理解するか、という問題があったのであろう。田中の著書が現れるまでに「超国家主義の論理と心理」「日本ファシズムの思想と運動」「日本におけるナショナリズム」「戦前における日本の右翼運動」「ファシズムの諸問題」「 ナショナリズム・軍国主義・ファシズム」などを論じた文を編んだ丸山真男『現代政治の思想と行動』(未來社)が2分冊(上巻、1956年/下巻、1957年)で刊行されている。
 本書を書き上げることになる古賀暹が東大に入学する前に、丸山の著書も刊行され、田中の著書も出版されていた。
 私たちが高校二年生のとき(1964)、オリンピック東京大会があった。そのころの学習用日本史資料集で紹介されていた2・26事件の決起趣意書を文章にうるさい級友が教えてくれた。美しいというのではない、後で言及する井上裕が「漢文調の文体それ自体の持つ韻律感、明治大正期の警世的な文章に特徴的に共通するやや激越で感傷的な表現特性」とする文章だった。あとで、北一輝『日本改造法案大綱』の緒言を土台にして作成されたものと分かった。
 北一輝は、今も論じられることが多いようである。一般書籍としては出版されていなくても、ウェブサイトで見ることもある。井上裕『私論 北一輝』(『専修大学社会科学研究所月報』№523.2007.1.20)もそうである。井上裕は、もう専修大を辞職しているが、井上が最初に北一輝を扱ったのは、大学のゼミだったと述べている。井上は「文学」作品に現れた北一輝を扱っている。武田泰淳『風媒花』(新潮文庫、初出は『群像』52/1-11)、利根川裕『宴』(中公文庫、初出は『展望』65/7-10)、三島由紀夫『英霊の声』(河出書房新社66/6)、三島由紀夫『豊穣の海 第二巻 奔馬』(新潮社、69-2)、久世光彦『陛下』(新潮社96/1)、井上は、劇画の手塚治虫『一輝まんだら 上・下巻』(角川書店,90/12)を、北一輝をかなりシリアスに捉えているので、あえて「文学」として取り上げたとしている。
 また、古屋哲夫が京都大学人文科学研究所『人文学報』に連載した「北一輝論」(1)36号〈1973-3〉、「北一輝論」(2)38号(1974-10)、「北一輝論」(3)39号(1975-3)、「北一輝論(4)41号(1976-3)、「北一輝論」(5)(1977-3)もウェブサイトで見ることができる。
 1971 年に『若き北一輝 恋と詩歌と革命と』(現代評論社)で、文学青年として北輝次郎の青年としての立体的な姿を提出して注目された松本健一は、北一輝についてのいくつかの著書を刊行していたが、2004年、屈指の『評伝 北一輝』第一~五巻(岩波書店)を刊行している。                                       
 古賀暹は、2003年頃から『情況』に北一輝について書いたものを掲載している。著書は、それを編集したともいえる。それは、「革命思想として読む」と副題があるように、少し先行して五巻本として上梓された松本健一の大著とは、趣が違うようである。
 古賀にとって、北一輝は、いわば父親の師である。戦争末期、古賀の一家は茨城県の母親の実家に疎開していたそうであるが、敗戦の8月15日に母方の祖父と一悶着を起こしたようである。心臓を病んでいた古賀の父親は、家を叩き出され、「ざまあみやがれ、お前たちの日本は負けたんだ」と祖父に怒鳴られていたという。
 著者古賀の父斌は、戦前にジャーナリストとして西田税と知り合い2・26事件ともかかわることになったという。直後、古賀たちは、文京区指谷町にあった中華民国基督教青年会の寮に住んでいた。北一輝夫人も住んでいたそうである。そこへ昭和25、6年のこと、蒋介石の中華民国の総統府秘書長だった張群が訪れたことがあったというのである。張群が中華民国の国旗をなびかせて、パトカー4、5台に先導されてやってきた光景は忘れられないという。
 著者の古賀は、2・26事件が軍国主義を生み出し、中国侵略する契機となったと学校で教わることになるが、蒋介石政府総統府の秘書長が訪ねてきたのはなぜかと疑問に思ったそうである。古賀は、北一輝と2・26事件は中国侵略を引き起こしたのではなく、それを阻止しようとしていたのではないかと考えたというのである。古賀は、辛亥革命を助けるために北一輝は2・26事件をやったのだと考えてもいいのではないかという(『情況』第三期第五巻第3号)。
 だが古賀は、北一輝は2・26事件を企てもしていないし、やってもいないと承知している筈なのに、変なことに、北が事件を起こした意図を推測している。
 1973年に古屋哲夫が「私には現在の北一輝研究の状況は、はなはだ混沌としているようにみえる。そしてそれは北の思想のなかから、何かすぐれた点をとり出そうとする意図が先走ってしまった結果ではないかと思われる」(『人文学報』36、1973-3)と述べていたことを思い出す。
 1931年9月に柳条湖事件が起こり、本庄繁関東軍司令官は、全関東軍に出動を命じて中国軍を攻撃させた。関東軍の兵力は1万400名なので、満州を占領するためには朝鮮軍からの増援が必要であったという。関東軍については、満州という日本国外にいる部隊は司令官に緊急的に対応する権限が与えられていたのであるが、植民地である朝鮮は日本国内であるので、朝鮮軍が満州に出兵することは国外出兵であり、奉勅命令と、閣議の経費支出の承認が必要であった。
 朝鮮軍司令官林銑十郎は、関東軍の要請に応じて、かねての打ち合わせに従って、平壌に駐屯している混成三十九旅団を満州に派遣する準備を命じた。21日午後、朝鮮からの混成部隊台39旅団は、列車で朝鮮の国境になる鴨緑江を越え、関東軍指令官の指揮下に入ってしまった。これは、天皇の統帥権をないがしろするばかりではく、関東軍・朝鮮軍が参謀本部や陸軍省などの軍中央の指揮下に十分服さないという点で大変な事態であった(伊藤之雄・講談社『日本歴史』22「政党政治と天皇」241頁)。
 1933年に国際連盟脱退、1934年ワシントン海軍軍縮条約破棄、1936年1月にロンドン軍縮会議脱退、2月に2・26事件が起こり、翌7月に盧溝橋事件が起こり、日中戦争がはじまった。
 張群が北一輝夫人を訪ねて来た事件を、古賀は「後に学校で習った歴史によると、2・26事件が軍国主義を生み出し、中国侵略を行った契機となっ」たといいうことに疑問を持ち続けることになったと言う。しかし、「北一輝と2・26事件が中国侵略を阻止しようとしていたのではないか」ということも考えられないかというのである(しかし古賀は北一輝と2・26事件を重ねて考えるのか、証明できるのか、また現実の日本の中国侵略をどう理解するのか阻止する手立てはあるのか)。
 ひとつひとつ、昭和の政治事件を洗っていくまでもなく、もう既に日本の軍隊は解体的な状況だったということである。ワシントン会議・ロンドン会議が開かれる前に、日本の財政は危ない状態だということを、ゾルゲが『地政学雑誌』『政治学雑誌』に投稿した論文など(みすず書房『現代史資料』24「ゾルゲ事件4」「日本の軍部(1935・8)」「東京における軍隊の叛乱(2・26事件1936・5 )」「日本の農業問題(1937・1-3)」「日中戦争中の日本経済(1939・2-3)」『日本の政治指導(1939・8-9)」などで報告している。
 古賀暹によるこの大著は、北一輝という存在と父子二代に渉って接してきた人によって書かれたものであるいうことで、他の北一輝に関して書かれたものと異なるようである。それは、最後に「北」ではなく「北さん」として呼んでいることに現れる。
 また、もう一つの特徴は、副題にある「革命思想として読む」ということである。これは、先のことほど見かけないことではないが、著者ほどの経歴の人の著書としても異色である。
 この異色さは本書に関心をもつことになった一因である。しかし、この二つのことに期待することは全くなかった。関心をもったというのは、異様な歴史的な事件が具体的な姿として比較的近くにあったということである。だから、しばしば、著書の立場からの思い入れが現れてくるのは、不快感をもたらすことはない。むしろ逆である。しかし、その思い入れが北一輝の政治や思想の叙述の障碍になっている印象はある。

二 古賀暹少年が見た、昭和25・6年ごろの文京区指谷町中華民国基督教青年会の光景
 さきに見たように古賀は、北一輝という歴史的存在を肌で感じたこととして昭和25・6年ごろ、古賀たちが住んでいた文京区指谷町の中華民国基督教青年会の寮にパトカー4・5台に先導され、中華民国の国旗をなびかせた車で張群(おそらく総統府秘書長)がやってきた異様な光景をあげる。この寮には、北一輝夫人が住んでいたそうで、中国国民党を代表する人物が訪ねてきたことに、北一輝や2・26事件が日本軍国主義を生み出し、中国侵略の契機となったとされることに疑問をもつたという。
 しかし、2・26事件は、侵略活動が切れ目のなく続き、統制もきかなくなっていた軍隊に起こった事件であった。つまり、中央の指令が無視されるような状態で青年将校たちの下克上的行動から起こった事件であった。いわば解体期に近い軍隊の性格を見ないで、なんらかの合理的な解釈をしようとするのは問題である。
 それよりも、子供時代の印象で仕方がないのかも知れないが、著者たちが戦争直後に住んでいた「寮」に現れた中国人は大陸を追われて台湾に陣取った国民党である。1947(昭和22)年2月27日、闇たばこを販売していた女性への手入れがきっかけで翌28日、台湾本省人のデモが起こり、当局が非武装のデモ隊に無差別に掃射するなどして騒乱状態になり、争いが台湾各地に広がり本省人の知識人青年など28、000人が殺害・処刑されたという。そのとき台湾には戒厳令が布かれた。戒厳令が解除されたのは、1987年だった。その2・28事件はタブー視され、日本人も多くが戒厳令があることは知っていたが事情は詳しくは知らなかった。しかし、著者(古賀)が台湾で国民党がどのような存在であるのかを認識できなかったとは思えない。
 「太陽のない町」の一角の「寮」に住む北一輝夫人に、パトカーに先導された高級車に乗った中華民国政府高官が訪れるというのは、忘れられない光景であろうが、大陸本土で、結局中国民衆に受け入れられず、劣勢を軍隊や暗殺団を利用した恐怖政治でやりくりし、従わないものは徹底的に弾圧するやり方を、逃げ込んだ台湾でもやってしまった、つまり、当初、決して拒絶的でもなかった台湾民衆に愛想を尽かされ抵抗されたのを弾圧した直後ともとれる時期である。「太陽のない町」に姿を現した張群には、関係ないことかも知れないが、国民党の難を逃れて日本へ渡って来た人(例えば直木賞作家の邱永漢など)を知らないことも無い筈の著者が、「革命思想として読む」とか「ナショナリズム」をテーマととして書いているものに、白色テロを敢行した政党の幹部の登場を代表的なエピソードとして紹介するのは、腑に落ちない。
   
三 「それははじめから社会革命としては実現不可能な政治革命の構想にすぎなかった」(吉本隆明)
   東日本大震災の年の翌年2012(平成24)年の3月に亡くなった吉本隆明が1964(昭和39)年6月の「日本のナショナリズム」(『現代日本思想体系4 ナショナリズム』,後,『自立の思想的拠点』に納める)で次のように述べている。

政治革命としてみるかぎり、明治以後の日本革命をもっとも実現近くまで導いたのは、アナキズムや日本共産党に象徴されるスターリニズムではなく、北一輝に象徴される農本主義的ファシズムである。いまだかって、日本のアナキズムやスターリニズムは、文化左翼の域を脱したことは一度もない。それは知識人の啓蒙主義の段階として考えられるにすぎない。しかし、北一輝などの政治革命は、絶対に社会革命を包括することができない先験性をもっていた。社会革命は、資本制を否定的媒介として肯定するという思想なしには、不可能であり、北らの思想は、この一点においては、文化左翼・知識人リベラリズムにさえ一歩をゆずらざるを得なかった。それははじめから社会革命としては実現不可能な政治革命の構想にすぎなかったといいうる(吉本隆明全著作集13巻-219頁)。

 吉本は、政治革命としてみるかぎり、明治以後の日本革命をもっとも実現近くまで導いたのは、北一輝に象徴される農本主義的ファシズムである」とした。1960年日米安保条約改定をめぐる国民的な運動の高揚が、実を結ばないまま退いていってしまった後の時期に書かれたものである。60年安保闘争を共産主義者同盟、全学連とと伴に突き抜けたあとにみた吉本の文は、あらためて古賀らに北一輝を革命思想として読む契機というより推進力となったのではないかと思う。国家社会主義者として北一輝を再構成しようとした滝村隆一は、吉本の発言に応えようとしていたように見えた。
 『擬制の終焉』の著者に、「明治以後の日本革命をもっとも実現近くまで導いた」のは「北一輝に象徴される農本主義的ファシズムである」とし、「日本のアナキズムやスターリニズムは、文化左翼の域を脱したことは一度もない」などと言われると北一輝に対する「幻想」が膨らむことになる。しかし、その「実現近く」とは何か。また北一輝などに象徴される農本主義的ファシズムの「革命」とは何か。
 「実現近く」とは、現実の陸軍将兵が首相官邸・陸軍省などを1500の兵が指揮されて襲撃したことである。しかし、小隊長などに指揮されたのは殆ど徴兵された兵士たちである。革命の兵士では全く無い。「実現」など見当もつかない。青年将校たちの間では、直前に「尊皇討奸」のスローガンが確認されたようであるが、社会革命の構想はもちろん、政治革命たり得る趣旨の片言も語られていない。「尊皇討奸」なる珍妙なスローガンと1500の将兵をもって官邸や陸軍省を攻撃し、政府高官などを殺害したのである。

四  「実在の人格である国家」?
 革命思想として読む、と副題した古賀暹の著書であるが、如何に北一輝が饒舌で文に長けているとしても、ハーバート・スペンサーをなぞった「同化」と「分化」の進化論的叙述は、あまりにも粗雑である。どのように革命思想として読むことが可能かと思う。
 古賀の本書では「実在の人格である国家」が主要なスローガンのように繰り返し登場する。
 どうして、本書では、「実在の人格である国家」が繰り返されるのだろうか。私たちがなじんでいるのは「国家とは、支配階級の諸個人がそういう形で彼らの共通の利害を押し通す、そして一時代の市民社会全体が自己を総括する形式であるから、共通の諸制度はすべて国家によって媒介され、政治的な形式をもたされることになる」という『ドイツ・イデオロギー』の叙述である。「一時代の市民社会全体が自己を総括する形式」だとするのである。実在するとするならそれは市民社会である。
吉本隆明は、1965(昭和40)年の「自立の思想的拠点」(『展望』75)で次のように述べた。「北が天皇制を逆手にして資本主義を廃絶しょうとする方策をあみだし、権藤成卿が天皇制国家権力と反国家権力としての農村共同主義を折りあわせちようとして〈国家〉と〈社稷〉というふたつの概念をあみだしたというようなことは、古典マルクス主義がかんがえるよりもはるかに深刻な意味をはらんでいる。なぜならば、国家本質論の内部では、キリスト教社会主義の存在を認めるならば、天皇制社会主義も矛盾なしに認めねばならないという側面を超国家主義はもっていたからである。講座派や労農派が天皇制国家の把握に失敗したのは、宗教的な疎外の累進した共同性として法・国家の本質をつきつめるという面が欠落していたからであり、丸山学派がこの把握に失敗しているのは、国家本質論をもっていないうえに、古典時代のリベラル・モダニズムの戦争体験を刻印されていたからである」という。
 吉本隆明は、講座派や労農派も丸山学派も「宗教的な疎外の累進した共同性」としての法・国家の本質を突き詰めていないからだめだと言うのであるが、吉本は民俗学者赤坂憲雄から、次のような指摘をうけている。

 ①昭和天皇の葬儀において、天皇家のもっている万世一系の血のカリスマを再認する、あるいは公認するための儀礼として新しく組織され、創られているのではないか。
 ②ある考古学者が、その葬儀に日本文化の伝統とか皇室のもっている文化の古式ゆかしさが見出されたと言って感激、称揚しているのは倒錯である。
 ③また、天皇制が天皇制国家として誕生していらい千数百年間は仏教式の葬儀が行われてきた。その千数百年の仏教的な葬儀の伝統を捨象し、新たにつくられた天皇家の葬儀を見て、皇室の伝統とか、古式ゆかしさを感じるのは倒錯である。
 ④たしかに、古代の文献などをみて擬似的な古代を創出しているのだから、古代的なものを見出すのは当然である。だから、それを元にして天皇家の伝統とか、民俗レヴェルの祭祀との関係づけをストレートに論じるのは誤りではないか(吉本隆明/赤坂憲雄『天皇制の基層』(作品社 1990年/講談社学術文庫 2003年)。

 赤坂の話を聞いた吉本は、直ちに「断じて承服できない」と言った。吉本にとって、天皇は「畏怖する存在」だったのである。丸山学派が「古典時代のリベラル・モダニズムの戦争体験を刻印されていたから」駄目だというのと表裏の関係のようである。
 他に対して、天皇を恐れ多いと脅迫する者ほど、天皇を「道具」としてしか見ていない例は多々出てくる。
 例えば、昭和6年2月の衆議院予算委員会でロンドン軍縮条約について発言していた幣原喜重郎が天皇の批准に触れた途端、傍聴席にいた政友会幹事長の森格が幣原を指さして「幣原!取り消せ!」と絶叫したという。この森は、陸軍の一部が「(昭和)天皇は凡庸で困る」と言っていると近衛文麿に告げた男である。自らは畏怖などしない者が、「天皇に責任を帰し奉るとは何事であるか」「単なる失言ではない」「総辞職せよ」と攻め寄るのある。
 森は天皇を臣民を畏怖させる人形として奉っているのである。それは、明治になって作り上げたものにすぎない。
 明治の国家も確かに法人とも言えるが、「実在の人格である国家」といって、自然に成長、復活するようなものでもない。
 赤坂憲雄が、天皇家の主要な儀礼である大嘗祭にも大きな断絶と空白あるいは絶無があること、みんなが想定する農耕儀礼とも異なること、また、明治以前の天皇家の儀礼は仏式であることなど、要するに、吉本がいう「万世一系の天皇の帯びている呪力の長い時間性」なるものを否定し、天皇制にまつわる儀礼などは、明治の作為であると赤坂が述べたとき、吉本隆明は、知識的には得るところはあるけれども、それ以上には何も得るところはないと言った。天皇が畏怖する対象であることに何の変わりもないというのである。この言い方は辛い。赤坂の言ったことは、吉本にとって「知識的には得るところあり」と済ますことが出来たのか。この「知識」は、吉本にとって、対応し難い衝撃であった筈である。吉本には「畏怖の対象であった」という感覚しか防御として残っていなかったのである。
 明治の国家は「実在していた人格である国家」ではなく、明治になって成立した国家だということである。けれども、明治新政府は、古賀が言うように(282頁)、武断的行為で成立したのではない。1868年に始まった戊申戦争は、1869年の5月の函館五稜郭の闘いで終わる長期戦であったが、戦争は、幕府が大政奉還し、「新」政府が徳川に辞官納地を迫ったことから始まった。実在の人格が変幻したのではない。
 過程での薩長同盟は画期的だったが、同盟が成立しうる条件が必要になる。薩英戦争はイギリスが薩摩の力量を認識する戦争であったが、原因の生麦事件は攘夷行為ではない。何年か前まで、薩摩の行為を攘夷活動と書いている日本史教科書があった。新政府の成立までに、薩長同盟もあり、諸公会議もある。図式どおりにはいかないものである。五箇条の御誓文といわれるものなども、諸侯会議等を念頭に練られていたものである。
 慶応2年9月に西郷宛に出された大久保の書簡には「幸にして将軍職御辞退固々申上候て此義は諸侯来会までは相動き申まじく候付誠に機会失ふべからずと存候間、共和の大策を施し、征夷府の権を破り、皇威興強の大綱相立候様御尽力伏して冀ひ存候」とある。
 大日本帝国憲法は明治22(1889)年に発布された。第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあって、具体的な規定ではない。第3条は「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」とある。これは立憲君主制の1830年のフランス憲法第12条、1831年のベルギー憲法第63条とほぼ同趣旨である。天皇の具体的な政治行為の手続き規定も無い。神がかり的専制君主を想起しているわけではない。
 問題は例えば、天皇は第5条「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」で立法権を行うということになっている。議会は協賛をするだけだと教えられた。しかし、伊藤博文たちの原案では「協賛」ではなく「承認」とあったのである。君主を臣下が承認するというのはどうかということで、「輔翼及協賛」とされ、「協賛」となったようである。
  この憲法は制定されてすぐに、解説書としての『大日本帝国憲法義解』が作成され、その英訳版Commentaries on the constitution of the empire of Japan も作成され、欧米に頒布された。そこでは、「協賛」はconsentとなっている。美濃部達吉『憲法講話』は議会の同意がなければ法律を定めることはできない、また同意を得ないものを天皇が裁可しても有効に成立することはできないと述べている(76頁)。これは、美濃部が意図的に解釈したというようなものではない。制定された憲法を理解しただけである。
 「実在の人格である国家」が勝手に進化していくとは長閑な話である。伊藤博文たちは、欧米諸国に遜色ない憲法を制定しないと国際的にも国内的にも活動できないと考えたのである。日本では何が犯罪であるか、その犯罪をどのように処理するのか、犯罪者の逮捕・拘束など制定されたものは皆無に等しいといった状態だったのである。
 それより前、明治4(1871)年、岩倉具視を全権大使とする使節団が米欧へ出発した。不平等条約改訂のための予備交渉として急ぐことであったのである。裁判のこともそうであるが、直接な問題は関税自主権の回復であった。新政府は明治4年に地租改正を行っている。関税自主権が無いところで、国家財政は農業生産を当てにしなければならなかったのである。ひきあいに出されるフランス革命に際しては、1793年のジャコバン派の国民公会のときに封建地代の無償廃止が行われていた。大久保や伊藤たちはフランスなどとは全く異なる遅れたところでの深刻な状況と格闘していたのである。「実在する人格としての国家」の展開を夢想していたわけではない。

五  久野収・板野潤治などの「顕教・密教」論
  佐高信が敬愛する久野収の思いつきの一つに明治憲法解釈における「顕教と密教」論がある。久野収が1956年に鶴見俊輔との共著として出版した『現代日本の思想-その五つの渦-』(岩波新書)で述べたことである。久野収の解釈によれば、伊藤博文は、国民には、権威主義的な絶対君主としての天皇を信奉させ、一方で国政を運用する秘訣としての立憲君主説を採用した。つまり、たてまえとして、絶対君主を信奉させたのが顕教で、支配者層の申し合わせとしては、つまり密教としては、立憲君主制だったとする。「しかし、膨張する軍部だけは、密教のなかで顕教を墨守しつづけ、文部省をその支配下において、顕教による密教征伐を企てる。国体明徴運動がそれである。その逆に、密教によって顕教を征伐しようとしたのが北一輝である」(佐高信『面々授受 久野収先生と私』(岩波現代文庫)10「顕教と密教」133-4頁)。
 佐高による紹介でも、久野収の叙述でも、誰でもすぐに変なことに気づく筈である。顕教と密教とは、仏教でのいわば教義学と儀礼のような関係をいうものと考えている。久野の言い方では、たてまえと本音のような言い方である。しかも、たてまえ、つまり顕教になぞる方が呪術風で、密教になぞる方が合理的であるとなるから例えとしても良くない。
 少しでも明治憲法を見てみれば、変なことは言わなくても済んだ事だと思うのである。
 ところが、上記のような、ずぼらな思考は佐高で終わらずに続いているのである。本書の参考文献に板野潤治の著書があった。『明治デモクラシー』(岩波新書,2005年)である。板野潤治・田原総一郎『大日本帝国の天皇主義』(小学館,2006年)である。少し気を付けて読めば問題は無いのだが、素朴な誤解が敷衍されている状態が続いているのである。

六 北一輝を「革命思想として読む」ことに、古賀は何の疑念も生じなかったのか
 古賀暹に北一輝を「革命思想として読む」ことを推したのは、社会革命としては実現不可能であるけれども「政治革命としてみるかぎり明治以後の日本革命をもっとも実現近くまで導いた」のは北一輝をはじめとする農本ファシストだったとする吉本隆明の言辞が主要なものだったであろう。
 しかし、「分化と同化の歴史」のような進化論を革命思想と読むには違和感がある。「実在する人格としての国家」など存在し得ないことを赤坂憲雄が吉本隆明を諭した、というより「人格としての国家」ではなく、天皇の祭祀そのものがもう中絶していたことを述べたのである。もっとも吉本は「断じて承服できない」と言っていた。
 「日本改造法案大綱」では、天皇大権の発動によって三年間憲法を停止し両院を解散し、全国に戒厳令を布き、華族制を廃止し、皇室財産の国家下附を行うという。
 戒厳令施行中現時の各省の外に生産的各省を設け、さらに無任所大臣数名を置きて改造内閣を組織す。戒厳令施行中普通選挙による国家改造議会を召集し改造を協議せしむ。
  「華族制の廃止」というのは、「天皇と国民とを阻隔し来れる藩屏を撤去して明治維新を明らかにす」るためだという。明治維新を大化改新をなぞって構想したことである。
 改造内閣には現時の各省の外に銀行省・航海省・鉱業省・農業省・工業省・商業省・鉄道省を設ける構想であるが、現状の分析等がなされたわけではない。
 私有財産限度・私有地限度を設けて超過額を再配分等するのであるが、「天皇は戒厳令施行中、在郷軍人団をもつて改造内閣に直属したる機関とし、もって国家改造中の秩序を維持すると共に、各地方の私有財産限度超過者を調査し、その徴集に当らしむ」とする。 改造法案を遂行するには、この在郷軍人団がどれだけやれるかということになる。次の二つの注がある。
「注一 在郷軍人はかって兵役に服したる点において国民たる義務を最も多大に果したるのみならずその間の愛国的常識は国民の完全なる中堅たり得べし。かつその大多数は農民と労働者なるがゆえに、同時に国家の健全なる労働階級なり。しかしてすでに一糸紊れざる組織あるがゆえに、改造の断行において露独に見るごとき騒乱なく真に日本のみもっぱらにすべき天佑なり」。
「注二 ロシアの労兵会およびそれに倣いたるドイツその他の労兵会に比するとき在郷軍人団のいかに合理的なるかを見るべし。在郷軍人団は兵卒の素質を有する労働者なる点において、労兵会の最も組織立てるものとも見らるべし」。

 在郷軍人団は、注二に明らかなるように、ロシアの労兵ソヴィエト、ドイツの労兵レーテを念頭においたものである。ソヴィエトとかレーテは評議会と訳されるように、自由意思で形成された組織である。在郷軍人は「兵役に服したこと」を要件とする。非常に隷属的に使役されることが条件である。そのような条件を基礎とする隷属的団体はソヴィエトとかレーテとは真逆の性格をもつものである。

七 北一輝、西田税が処刑されたわけは何か
 北一輝、西田税が、なぜ処刑されたのか、その合理的な理由は、あきらかになっていない。死刑判決を受けているものは、二・二六事件の首謀者たちである。彼らは行動を起こすことを具体的に合意し、部隊を動かした。しかし、北一輝と西田税にはそのような事実は一切無いのである。首謀者である将校たちが、北一輝『日本改造法案』を読んだことがあったり、西田が、将校たちと北との仲介であったとしても、それが、北らが反乱の首謀者として処刑されることにはなりえない。
 NHKのドキュメンタリー番組で、事件首謀者たちの拠点になった宿舎の電話盗聴録音が放送された。「キタだ、キタだ」とせわしく喋る男の声と、ちょっと、戸惑う将校(安藤)の声があった。「マル、マル、カネはいらんかね。」と続く。最初聞いたとき、北一輝がこんなかたちで、事件に絡みたがっているのかと思った。と同時に、キタと称する男に非常に軽い印象を多くの人がうけたようだ。しかし、電話をうけた安藤は、最初から、北とは信じていないようだった。そして、中田整一『盗聴 二・二六事件』(文藝春秋)によれば、この電話のとき、北一輝は、すでに東京憲兵隊に逮捕されていたというのである。
 中田は、2・26事件の裁判官もつとめた元参謀本部参謀石井秋穂の言葉を紹介している。
 「……そこで、寺内陸軍大臣が裁判官の班長をみんな集めて景気づけをやった。”北、西田を死刑にせよ”とはっきり言ったわけではないが、北、西田が悪い、青年将校はあいつらにくっついていっただけだ、ということを間接的な表現で言うわけですよ。」
 中田は、「二・二六事件の際、青年将校らに激励の電話を入れた北一輝と西田税を極刑に処す、それは最初から陸軍中央の方針であった。『かかる不逞の輩に、純真な将校が踊らされて理非を誤ったのが今次叛乱の実情なり』陸軍は北の『日本改造法案大綱』を短絡的に結びつけ、その著者を事件の黒幕として断罪した。」と述べる。
 『新訂 二・二六事件 判決と証拠』(伊藤隆・北博昭共編、朝日新聞社1995)にある判決理由には、その「激励電話」のことはない。北と西田を介した将校たちの交渉が記載され、そこには、しばしば「霊告」の内容が記載されている。それは、他の供述や押収された『霊告日記』により裏打ちされるものであろう。「霊告」というのは、自らを無責任とするための方便かも知れない。霊媒師を信ずる人はあまりないだろう。
 中田は、陸軍首脳が、「短絡的に結びつけ」たとするが、臨戦装備の軍隊が、見張り警官程度の防備しかない首相官邸などを機関銃などで襲撃し、政府要人や警備の警察官らを殺し、政府中枢を制圧したのは、天皇が激怒するまでもなく、大不祥事である。粛軍どころではない。既に、陸軍は実質解体的あったといえる。松本清張は「下克上」と表現するが、陸軍の存在自体が深刻な状態なのである。中田は、北・西田に同情的に「短絡的に結び」つけられたとするが、陸軍は、そうでもしないと、体面が保たれないほど深刻だったのである。
 かと言って、北・西田が被害者であったかというと、そうとも言えない。北とか西田のようなフィクサー的存在は、確かに陸軍が、罪をつけて流す人形(ヒトガタ)、流雛として利用したものであるが、西田はまだしも、北はあきらかに、そういう情況で生活の資をえていたことは間違いない。問題は、北らの存在によって、事件が意味するところのものが誤魔化されてしまったということである。
 皮肉なことに、このことによって北一輝に対する虚像は確実なものになったと言える。そして、崩壊日本陸軍の問題は、それほど問題にされることもなく終わってしまった。
 2・26事件からほぼ1年4ヶ月後(1937/7)盧溝橋で日中両軍の衝突が起こり、宣戦布告無しに日中戦争が始まった。

八 必要とされる批判と分析・古賀は本当に革命思想として読めたのか?
 古賀清志海軍中尉らの独断によるテロである5・15事件と異なり、2・26事件は、組織的に1500名近くの兵士を動員して首相官邸や陸軍省・警視庁などを襲い、機関銃などを使用して、政府要人を殺害し、霞ヶ関・三宅坂一帯を制圧した。結果として国家自体を迷妄の淵に追いやり、国民の財産や命も奪うことになるテロ行為であった。とても革命運動とは言えない。 
 「昭和維新断行・尊皇討奸」というスローガンは君側の奸を討つことで、大御心の発現をみるとする錦旗革命的な表現である。それで第一次襲撃目標に首相岡田啓介・侍従長鈴木貫太郎・内大臣斎藤實・大蔵大臣高橋是清・前内大臣牧野伸顕・元老西園寺公望・教育総監渡辺錠太郎を定めた。岡田は襲撃したが、秘書官松尾大佐が身代わりに殺害された。鈴木は襲撃され瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去り辛うじて一命をとりとめた。斎藤・高橋・渡辺は殺害された。牧野は辛うじて難を逃れた。国民を奈落に追い落とすテロである。
 この一連の動きに北一輝らの直接の意向は見当たらない。岡田首相らの「側近」政治家を殺害などで排除したあと、どうするのか。北一輝は霊告日記で真崎甚三郎を浮かばせているが、ほとんど取り合われていない。
 「改造法案大綱」によれば、天皇大権の発動によって、全国に戒厳令が布かれるのであるが、戒厳令は、決起軍を叛乱部隊として鎮圧するために出された。これで、決起軍は鎮圧される側になって、事は終わったと思ったようである。
 吉本隆明は、「政治革命としてみるかぎり、明治以後の日本革命をもっとも実現近くまで導いたのは」、「北一輝に象徴される農本主義的ファシズムである」と述べるのは、2・26事件と北一輝らが不可分ということを前提としているのであろう。確かに決起の首魁である磯部や村中やその他の者にとっては北一輝の著書は、情を煽るものであったろう。吉本が「もっとも実現近くまで導いた」というのもそういう状況に由来することがあるのだろう。
 それにしても、2・26事件で殺害された蔵相の高橋や真崎の国体明徴に関する訓示を批判した教育総監の渡辺、危ういところを免れた首相の岡田、命をとりとめて終戦を導くことになる鈴木にしても、相当の人物である。その人たちを殺害し、あるいは殺害を謀り、政治の中心から排除したあと、日本はいよいよ悲惨な状況を向かえることになる。とても革命とはいえない。
 もちろん、「日本改造法案大綱」はこの時期に書かれたものではない。しかし、決起して、処刑された将校たちは、全員『改造法案』を読んでいるのである。その上で首相官邸や陸軍省・警視庁を襲撃しているのである。   
 あいもかわらぬ変わらぬ政治ゴロを継続しようとしていた北一輝などは別にして、決起部隊の、行動趣旨も政治意図も分からない。改造法案では、戒厳令の下で改造を断行する筈ではないのか。
 決起部隊にしても、とくに東北日本の農村部の疲弊と回復が念頭にあり、それが「昭和維新」のイメージにも連なる筈である。
 『改造法案大綱』にはロシアの「労兵会」をなぞっているのがある。そうであるなら、当然のことながら、軍備による財政圧迫や生命の危機から解放される「平和に関する布告」や農民革命を認める「土地に関する布告」を相継ぎ公布したロシア革命とのギャップは大きい。
 北の著作などが20世紀の世界史的事件を把握できずに、大化改新や明治維新を「理念」として想定し、北や決起軍の動きをみると、とても「日本革命をもっとも実現近く」に導いたとも、来たとも思えない。
 韓国では1972年10月朴正煕大統領が「大統領特別宣言」なるものを発表し「10月維新」を断行し独裁色を強めた。
 内田樹の面白くもない戯文(『内田樹の研究室』)に「あの話を若い方にご理解いただくためには、明治維新から説き起こさねばならぬのだよ。少し話しが長くなるので、まあ、縁側に座って、お茶でも飲みながら聴いてくだされ。 新左翼の学生運動というのは、幕末の《攘夷》運動の3度目のアヴァターなのだ」と書いているところがある。出来の悪い戯作者のような文であるが、明治維新のことも、攘夷運動のことも全く頓珍漢理解で書いている。「維新」とわけわからず言及する一例である。
 「維新」というと、「大阪維新の会」とか「日本維新の会」いうのがここ数年、政界をかき回した。維新を名付けるのであれば、「昭和維新」や韓国の「維新体制」も視野に入れないといけない。大阪維新の吉村大阪市長は、サンフランシスコ市に対して姉妹都市提携を解消する意向の文書を送付したようであるが、維新の橋下前市長が米軍海兵隊司令官に性風俗業を利用することを勧めることを言ってあきれられたことも含めて、しっかりと考えてもらいたいものである。

2016年10月20日 (木)

ひどいドラマの『とと姉ちゃん』から解放されて

一 致命的な西田征史の言葉の感覚
 ちょっと時期を逸した話で恐縮なのだが、NHKの朝のドラマ『とと姉ちゃん』が終わってほっとしている。主演だった高畑充希については、とやかく言うつもりは無い(といっても、それほど良かったわけではない。どちらかと言えば悪い。尤も責任の多くは脚本=西田征史=などにある)。
 先ず気になるのは、タイトルの「とと姉ちゃん」・決め台詞「どうしたもんじゃろうのう」が良くない。
 「とと」「かか」とは何処の言葉か。ドラマの小橋家も、モデルの大橋家も教養ある家庭で丁寧な言葉遣いである。当時には、普通にはあまり無い教育を受けた人の家である。何のつもりの「とと」「かか」なのか。落語の話では無い筈だ。
 唐突に、しかし度々登場する「どうしたもんじゃろうのう」は、謂われも何も意味不明。この意味不明は不愉快でしかない。「あまちゃん」系のギャグを目指しているのか。
 NHKは、日本語や地域の文化を気にしており、それぞれの文化を尊重する使命感ももっていた筈だ。
 安倍様のNHKぶりも不愉快だが、この日本語やそれぞれの言葉にぞんざいなのも糾弾に値する。毎朝、ドラマが終わった8時15分ごろ、拙い3人が惚けたことを言うのも不愉快で止めて欲しいというより、止めろ!と言いたい。柳澤は、あとの二人を窘めろ!
 前置きが長くなってしまったが、ちょうど、そのドラマの最終回近く、ドラマの時間帯より少し早く、違う局で、『サワコの朝』か何かをやっていた。由紀さおりが出ていた。日本語が成立しかけたころの唱歌だと言って、『春』を阿川佐和子と歌った。一番の「すみだがわ」の「が」は鼻濁音になるのだと言って歌った。日本語の表現と発音を滝廉太郎がどれほど配慮していたかを話して、また1番の「すみだがわ」のところが2番では「つゆあびて」になる。その「つゆあびて」を生かすために旋律を変えているのだと説明していた。
 もとは安田姉妹として童謡歌手としてならした人かもしれないが、そのやさしいが風格ある姿勢からの説得力ある解説には、作家の妹の阿川佐和子も声がなかった。
 そのすぐ後で、「とと姉ちゃん」とか「どうしたもんじゃろうのう」などと訳の分からんものの洪水なのである。柳澤はなんとかしろ!と思う。NHKには、日本会議とかが経営委員になっているとかが話題になっていて、慌てて、肩書きを外したようである。文科省でも「日本語」にうるさいのと違うのか、それとも日本会議なんぞ、そもそもオカルトなので、それほど煩くないのかも知れない。
 
二 致命的なモチーフの不在
 NHKプロデューサーの落合将は、大橋鎭子さんや花森安治はモデルではなく、モチーフだと逃げている。きちんと描けなかったり、通俗的な恋愛劇を挿入して気をもたせるためのつまらない言い訳としか取れない。坂口健太郎扮する星野と小橋常子とのつきあいは、出来の悪い漫画のようなつくりものめいていて、じゃまくさい。
 このような話が白けるのは、つくったドラマの肝はモデルじゃない、モチーフだと勝手な話にしているからだ。勝手な話というのは、花森が編集長で、いわば大橋鎭子がマネージャーをやって、歴史的なあるいは、時代を象徴しているとも言える『暮らしの手帖』誌の主題から、すなわち、モチーフから大きくずれた話になっているのだ。
 「モデル」じゃない「モチーフ」だと落合は遁辞を出すが、実はモチーフがなっていないのである。
 西田征史も落合将も全く、雑誌を刊行することに関心も無いし、意義も感じないのだろう。ドラマを通して見ればそのように理解せざるを得ない。
 その意味で『とと姉ちゃん』は、全く駄目なドラマだった。言ったように、全くモチーフが無いからである。本当に白けるドラマだった。大橋鎭子さんが、女学校を卒業して、勧業銀行に勤め、日本読書新聞で働いていたことは周知のことである。勧業銀行での調査部の仕事や読書新聞の仕事は『暮らしの手帖』を創刊する土台になったことは、だれでも想定することである。
 雑誌で当てて、お金持ちになる、などと、実際の『暮らしの手帳』関係者が怒ると思わないのか。西田征史や落合将は本当に分からないのだろう。二重にナンセンスなことだ。
 ドラマでは、大橋さんの、その肝腎の経歴(勧銀や日本読書新聞)を省いてタイピストをしていたことにしている。ドラマでの高畑充希の常子のタイピングでは、とても仕事にはならない。つい最近まで、会社の大事な会議の議案書などタイプ印刷していたものである。もちろん裁判所も登記所もである。
 そんな仕事を首になりそうなとき、「私は家族を養わなければならないんです」は、まともな生活感覚ある人なら白ける。しかも、その原因が、戦時中でもあるとき、女性だけでビア・ホールに出かけてトラブルになったことである。これも想像しがたい。「とと姉ちゃん」だからと言って、実は「オヤジ」になっていたのかと思う。
 こんな馬鹿な話を毎朝続けるのである。だから、この期間(『とと姉ちゃん』が放映されていた期間)は、毎日不愉快だった。終わって放っとしている言うのはその意味である。
 『暮らしの手帖』がモデルになったドラマである。そのユニークな雑誌のモチーフは、やはり、大橋さんが勧銀勤務、日本読書新聞勤務のなかで育まれたものであり、花森安治が神戸3中から松江高等学校に進学し、帝国大学新聞の編集部にいたことや、大政翼賛会の外郭団体で仕事をしていたことは、モチーフを問題にする以上避けられない。大橋さんと花森安治の接点が日本読書新聞であることも周知の事実である。これらをわざと無視して(少しは戦時中の出来事をエピソードとして挿入しているが)拙いタイピストとして登場させるなど、当時のタイピストに対しても失礼この上無いことである。 

2016年10月15日 (土)

岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』新潮選書2012・8

一 ドラマ『百合子さんの絵本』の原案本
 7月30日(土)NHK終戦スペシャルドラマ『百合子さんの絵本~陸軍武官小野寺夫婦の戦争~』のが放映があった。予告編で香川照之の夫と薬師丸ひろこの妻が出ていた。宣伝の文句に「たった2人でも戦争を止められると信じていた」とあった。
  NHKの番組案内に「このドラマは池端俊策さんのオリジナル作品です。原案本は、『消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦いー』(著者:岡部伸 /新潮社)です」とあった。
 「百合子さんの絵本」というタイトルは、ムーミンの翻訳者として活躍された小野寺百合子さんのエッセーなどのイメージが土台のようである。ドラマでも、加藤剛が演ずる佐々木信綱が主宰する歌の会がある。日本の子供たちへスウェーデンの絵本を潜水艦で送ったエピソードが出てくる。
 しかし、「百合子さんの絵本」そのものが、この終戦スペシャルドラマのどのような主題になのかということは全く分からなかった。最初に、加藤剛扮する佐々木信綱主宰の歌の会なので、そんな香りのするドラマなのかと期待してしまった。池端のオリジナル作品だというのでムーミン翻訳者の「百合子さん」の終戦が主題かと思ったら、岡部伸氏の著書に依った情報士官小野寺とその夫人のドラマであった。「百合子さん」の登場は、暗号化した電報を打電する場面が殆どだった。
 その岡部氏の著書『消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦いー』は、2012年8月刊行の新潮選書で、佐藤優氏の解説を除いても460頁を越える大作である。
 
二  スウェーデン公使館附武官小野寺信少将
 著者の岡部伸氏は、産経新聞の社会部外信部を経てモスククワ支局長として北方領土問題なども現地で取材もなさってこられた方である。
 1940年(昭和15年)11月に陸大教官だった小野寺信大佐は、スウェーデン公使館附武官に発令され、翌年1月にストックホルムに着任した。情報士官の仕事をしながらクリプトテクニク社(現・クリプトA.G.)から最新の暗号機械を買いつけたり、ピアノ線とボールベアリングを調達しドイツ経由で本国に送っている。1943年8月に陸軍少将に進んだ。小野寺の送った機密情報は「ブ情報」と呼ばれ、海外からの貴重な情報源となった。「ブ情報」の「ブ」は、ミハウ・リビコフスキ(Michał Rybikowski)の上官ブジェスクフィンスキの頭文字である。小野寺はとくに1945年2月、ヤルタで米英ソの巨頭会談があり、ドイツ降伏後90日以内にソ連が(日ソ中立条約を侵犯して)対日参戦するという機密情報を日本の参謀本部に送っている。
 敗戦後の1946年(昭和21年)3月に日本に帰国復員したが、同年7月まで戦争犯罪人として巣鴨プリズンに拘留された。
 戦後は妻百合子とスウェーデン語の翻訳業に従事するなどスウェーデンの文化普及活動に努めた。晩年になって『NHK特集 日米開戦不可ナリ 〜ストックホルム・小野寺大佐発至急電〜で取材インタビューが行われ、1985年(昭和60年)12月に放映された。小野寺の大戦中の活動に照明が当てられた。
 佐々木譲の小説『ストックホルムの密使』(新潮社1994)は小野寺夫妻の終戦工作をモデルにしたものである。
 岡部氏は、この伝説の「インテリジェンス・ジェネラル」の活動とその成果を明らかにしようとされたものである。小野寺が打電した筈のヤルタ密約の機密情報についての大本営からの反応はえられなかった。その情報はどうなったのかは、全く不明だった。大本営は海外の出先含め、電報など関係資料を終戦と同時に焼却処分しており、小野寺が打った「ヤルタ電報」の行方は杳として分からなかった(p.464)のである。
 2005年ごろから米国立公文書館で、小野寺が巣鴨拘置所で供述した調書や米中央情報局(CIA)が集めた「小野寺信」ファイルなどの秘密文書が公開された。2007年ごろからは英国立公文書館で、ブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読した小野寺の電報が秘密解除された。そこには「ヤルタ電報」を除いて、小野寺がストックホルムで送受信した電報を傍受・解読したほぼ全ての秘密文書があった。岡部氏はいまだに全てをよみきれていないという(p.465)。
 岡部氏は、インテリジェンス・ジェネラルとしての小野寺の活動が凡そ確認できたとして遺族に報告すると、小野寺が生前に家族に語った「証言テープ」などの提供を得た。岡部氏は、更に多くの関係者にインタビューを行い、防衛研究所史料室や国会図書館から新史料を発見して本力作になったという。
 
三 日本政府や大本営に無かった「グローバルで怜悧な大局観」とは何か?
 ポーランドやバルト三国の情報士官から「諜報の神様」と慕われ、連合国側からは「枢軸側諜報網の機関長」「欧州における日本の情報収集の中心」とおそれられていた伝説のインテリジェンス・ジェネラル小野寺信の活動、その象徴的なものとして小野寺がもたらした筈が、日本の大本営には痕跡の無いヤルタ密約情報の問題を克明に明らかにされた岡部氏の糾明作業は小野寺夫妻の活動を顕彰するものである。
 この岡部氏の著書は、確かに力作である。ところが、岡部氏の叙述に、少し気になるところがある。例えば、独ソ戦の勃発危機を小野寺が日本政府に伝えたときのことである。「…小野寺個人の情報に対しての判断ミスと捉えるよりも、組織的に情報を冷静に判断するシステムが確立されていなかったと見た方が正確だろう」(p.172)とある。抜群の情報将校(小野寺)についての評伝であるので、このような書き方になるのだろうが、問題が「組織的に情報を冷静に判断するシステムが確立されていなかった」ことにあるというのが本書の趣旨のようである。情報士官(小野寺)は、抜群の働きはしているのに、それに対応するだけの情報を冷静に判断する「システムがなかった」のが問題であるということのようである。世界一級の情報将校が活動しているのに、その情報を生かすことが出来なかった、生かすことが出来たら、多くの悲劇が避けられたと言っているようである。
 小野寺がドイツとソ連の開戦の危機の情報を流しているのに、無反応な日本政府を「最初に独善的に立てた作戦(構想)があり、そこから外れた情報は頑なに拒絶されたということだ。その情勢分析には、独ソ戦の勃発が世界の軍事バランスを日独伊対米英という二大陣営に分断してしまうという、グローバルで怜悧な大局観はない」「この時すでに日本のインテリジェンス・サイクルは機能不全に陥っていたのである」(p.176)という。岡部氏は「日本型官僚組織に潜む病弊は根深い」(p.176)という。
 岡部氏は、日本政府にグローバルで怜悧な大局観が無かったことを問題にしている。岡部氏は、ロシア革命後の国際反革命行動の一翼として行ったシベリア出兵を否定しない(p.154)。ロシア革命でのレーニンの、無賠償・無併合・民族自決に基づく即時講和を趣旨とする「平和に関する布告」は世界に影響を与えた。
 第1次世界大戦後の世界秩序の再構築はパリ講和会議で始まるが、その講和の原則はアメリカ大統領ウイルソンが18年1月に発表した十四箇条の平和原則である。それは、ヨーロッパ列強の秘密外交や非民主的な政治を批判し平和や公平への民衆の願望をうけとめ、自由主義経済のもとで戦争を防止する国際秩序を実現して、ロシア革命の社会主義にに対抗せんとするものでもあった。しかし、フランスやイギリスは植民地などの既得権益を手放さず、敗戦国にも厳しい態度で臨んだので、この原則の実現は部分的だった。
 世界的な反革命行動のシベリア出兵は、第1次大戦の痛手を被っていなかったアメリカと日本が主力になったが、反革命が鎮圧されて他国が撤兵したあとも日本だけは兵を退かず、内外の批判をあびて22年にようやく日本も撤兵した。たしかに、そこに「グローバルで怜悧な大局観」は見られないのだが、そのような大局観というか歴史観・世界観が無いのは当時の日本というより現代の著者の岡部氏からも窺えないのである。
 パリ講和会議で決定したヨーロッパの新国際秩序をヴェルサイユ体制と呼んでいるが、アメリカ大統領ハーディングの提唱で、1921年から合衆国、イギリス、フランス、日本などがワシントン会議を開き、海軍軍備制限条約、中国の主権尊重・領土保全を約束した九カ国条約、太平洋諸島の現状維持を求めた四カ国条約が結ばれた。このようなワシントン会議で決まったアジア・太平洋地域の国際秩序をワシントン体制と呼んでいる。
 政府・大本営に「情報を冷静に判断するシステム」が無いというより、国家、政治、歴史、戦争についての基本的な知識・認識がジャーナリストも含め一般に無いのではないかと思うのである。
 日本での軍・学の共同推進は、かなり遅れて、急遽行われていたようである。例えば大阪帝国大は1931(昭和6)年に医学部理学部で設立され、物理学科などが1933年に発足した。1936年にサイクロトロンの建設が始まった。そこで、菊地正士、渡瀬譲、山口省太郎などが人工放射性元素のβ線およびγ線の研究をしていた。また、1943年になると阪大の一期生などもマイクロ波のレーダーの製作のために、東京の海軍技術研究所分室へ出向した。しかし戦争が終わるまで実用化には成らなかった。
 堀栄三『大本営参謀の情報戦記』は、広島被爆のあと「堀たちの頭に、原爆という語は、その当時かけらほどもなかったことを告白する」(p.260)と述べる。しかし戦争末期、荒勝文策京大教授は海軍から原爆開発の依頼を受けていた。もちろん、投下する飛行機などなかった。一方で陸軍は理研の仁科芳雄らに原爆開発を依頼していた。荒勝は被爆直後の広島に赴き、新型爆弾は原爆であるという認識を示し、土壌の強い放射能のデータから「核分裂ヲオコセル『ウラニウム』ハ約1kg」という分析結果を報告している。
 とくに言及するまでもない記述であるが、岡部氏は「開戦に至る判断は世界の客観情勢を無視したものであった。前年、陸海軍の若手幕僚による『総力戦研究所』が図上演習から、『補給能力は2年程度しか持たない』と陸相時代の東条以下に報告したが、東条は『日露戦争では、勝てると思わなかったが勝った。机上の空論では戦争はわからない』と一顧だにしなかった。インテリジェンスを軽視した独善的な戦略決定だった」(p.238)とする。インテリジェンス云々ではない。既に、1931年からの満州事変で、1928年の不戦条約に抵触している。また、林銑十郎中将指揮下の朝鮮軍は奉勅命令無しに越境している。既に軍隊の体裁を為していないのである。その後、開戦手続きも無く、日中戦争を起こし、南京まで攻め込んでいる。糧食の準備の手当も無い。将兵の掠奪に任せるままだった(というより依存状態)ようである。末期に徴兵された兵士が自分たちを、マックス・ウェーバーの分類で言えば「奴隷軍」だと称していたが、強盗の群れでもあったようで、南京事件の考証をした人によると、都市南京での犠牲者もさることながら、周辺の農村での犠牲者の被害を挙げている(笠原十九司『南京事件』岩波新書)。
 以上は、岡部氏の著書の叙述において、日本政府や軍部がインテリジェンスを軽視したり、無視したことの問題を挙げておられるようなので気になったことである。小野寺夫妻の活動が実を結ばなかったのは、インテリジェンス以前の問題があるのではないかと思うのである。
 1941年の真珠湾攻撃を、未だに奇襲でもだまし討ちでも無いと強弁する人たちがいる。宣戦の通達が遅れたのは、外務省の役人の遅滞ミスだと言ったりしている。実際に攻撃に出発させておいて、通達せよとは引き金を引いておいて、玉より早く届けようとするような感じではないか。攻撃の効果ポイントを挙げるためには、奇襲しかなかったとしか思えない。 岡部氏は、開戦を「インテリジェンスを軽視した独善的な戦略決定だった」(p.238)とするが、戦争するには欠落しているのは「2年しかもたない補給能力」だけでない。補給の方法も無いのである。戦争相手の能力分析も無い。戦争についての考えが非常識というより、異様なのは何故か、ということが問題ではないか。
 
四 「反ソ・反共」と「親ソ・容共」?
 また、気になる叙述がいくつかある。「帝政ロシアがアジアの新興国に敗れ、世界中に恥をさらした屈辱感が今なおロシア人の心を支配しているのだ」(p.434)とある。こういうコンプレックスを抱え込んだロシア人に会うことがあれば、少しびっくりするだろう(もちろん、同様のことはお前のようなのがいるから日本は戦争に負けたのだ、と罵倒する日本人もいるので、一概には否定できない)。似た叙述に「彼ら(ポーランド)に勇気を与えたのが日露戦争だった」(p.153)とある。具体的には、日清戦争後、大陸進出を進める日本は、三国干渉で圧力を掛けてきたロシアとの間で熱くなった。日露戦争では、バルティック艦隊を沈めたところで、間をおかず講和を成立させた。日本の能力はいっぱいいっぱいだったのである。戦争でロシアを勝ちまかしたわけではないのである。だから講和条約の内容を聞いた(実は勝つたのではないこと知った)日本人は暴動を起こした(日比谷焼打ち事件1905)。伊藤博文は、最後まで開戦を回避することに尽力していたのは常識である。
 屈辱感というのなら、1939年のノモンハン事件では、ソ連は航空機以外の兵器の質が全く違ったという。とくに第2次ノモンハンでは、日本軍は一蹴された印象で語られる。実際には、ソ連軍にも相当の損害があったそうである。しかし、ソ連軍は、その後、独ソ戦争で勝利したように成長している。
 岡部氏は「そのロシア人自身が、自らがモンゴルの末裔であることを認めている。『タタールのくびき』からロシアを解放させたとされるイワン雷帝が、『白いハーン』を名乗っていたことをご存じだろうか。ハーンとは、『汗』、イスラム教国の君主の称号であり、白はトルコ=モンゴルの世界観で西方を象徴する色だった。つまり、イワン雷帝が中央アジアのモンゴルから『西の君主』であることを自らモンゴル流に表現したのだ」(p.40)と述べる。
 イスラム教国の君主の称号というハーンは一般には聞かない。ハン(ハーン)は遊牧民の間で用いられた君主の称号である。南ロシアにモンゴルの国、キプチャク=ハン国が立てられ、イラン・イラク方面にチャガタイ=ハン国がつくられ、それぞれ、イスラム化した。だから君主をハンと称することはあるだろう。
 15世紀にはモスクワ大公国が勢力を伸ばして大公イヴァン3世のときに東北ロシアを統一し1480年にモンゴル支配を脱し(タタールのくびきから解放したのは雷帝の祖父のイワン3世である)ツァーリの称号を用い、孫のイヴァン4世が正式に戴冠式を行った。岡部氏の叙述が分かりにくいのは、タタールのくびきがモンゴル人支配を言うのなら、それから解放した(と岡部氏が言う)雷帝がなぜ、モンゴル人であることを自称するのか。この話には、いろんな説話が混交している。
 岡部氏は、なぜ、このような明確でない叙述をしたのだろう。ロシアはモンゴル系で侵略的であると言いたかったのだろうか。しかし、モンゴル帝国の時代、ムスリムの商人の交易活動も目覚ましく、世界の発展に寄与したのである。
 本書が力作でありながら、叙述を素直に受け取れないところが多いのである。先に引用した箇所(雷帝についての叙述)の後には、スターリンがモンゴルの末裔だと言ったという紹介(p.42)がある。スターリンがモンゴル帝国のような侵略者の末裔だと言いたいとしか理解できない。著者の岡部氏の趣旨はよく分からない。このような不明確な出自を根拠に偏見を助長するのは非難されるべきレイシズムではないか。
 
五 国を滅ぼしかねない中枢の指導者や財界に靡くマス・メディア
 次のような記述がでてくるのも不可解であった。「中枢の指導者が、主観的願望に拘泥して危うく国を滅ぼしかねない事態は、終戦から60年以上経た現在の日本でも起きている。2011年の東日本大震災に伴い発生した福島第1原発事故における菅直人前首相が取った対応も同じ文脈にある。初動の24時間以内に廃炉を覚悟で海水を注入し、米・仏・露の経験と人員を借り受ける揺るぎなき決断をすれば、メルトダウンも防げたとも言われる。民間の『福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)』は報告書で官邸の初動対応を『無用な混乱やストレスにより状況を悪化させるリスクを高めた。場当たり的で泥縄的な危機管理』と指摘、国会の事故調査委員会(黒川清委員長)は、『自然災害でなく人災』と断定する報告書を公表した」(p.366)とする岡部氏は、東日本大震災時も現役のジャーナリストで当時の状況を見ていた筈である。
 福島原発は緊急用の発電機が機能できなかった設計ミスがあったことは、当時のニュースでも分かる。岡部氏は「廃炉を覚悟で海水を注入」すべきだったとするが、津波による浸水で「非常用ディーゼル発電機やバッテリー(直流電源)、電源盤等すべての電源を失い」、計測もできない状態だった。海水の注入も消防のヘリコプターなどから試みた(うまくいかなかった)映像は岡部氏もご覧になったと思う。菅直人首相は厚生大臣時代、薬害エイズの解決の功績があった。短気なところから「イラ菅」とも言われていたらしい。水が浸かるようなところに非常用発電機を設置するような設計なので、大きな災害には持ちこたえられなかった原発に東電社員は逃げ越しになったらしい。それに突撃命令にも似た激励をしたのが菅首相で、それが社員らに「ストレス」になったなど言われたのかも知れない。
 著者の岡部氏が当時の首相菅直人氏を「主観的願望に拘泥して危うく国を滅ぼしかねない事態」を招いた指導者として批判しているのである。しかし、事故調査・検証委員会による聴取では吉田昌郎所長は菅の視察による作業への影響は全くなかったと答えている。
 菅氏に対する攻撃の最たるものは、「海水注入の中断を指示していたのは菅総理だった」と当時野党の党首だった安倍晋三氏がメルマガに書き、いくつかのメディアが倣ったデマの拡散もある(このことによる菅氏が安倍氏を訴えた裁判があるが、この裁判官も判決も拙い)。これは、極端なデマであるが、それを頂点として菅直人氏に対する否定的風潮は、福島原発の深刻な事故に直面した菅直人氏が脱原発を切実に追求する必要を言い出したころからである。
 またwikiでは、当時の海外のメディアの福島原発事故対策についての評価について次のように紹介している。
 ●2012年3月にはガーディアン紙特派員が「東電幹部の首根っこを抑えた菅前首相は及第点」と一定の評価をした。
 ●ドイツの第2ドイツテレビ(ZDF)は東電幹部、作業員、原子力工学者などに対するインタビューや現地調査、河野太郎、佐藤栄佐久などの他、菅直人自身にもインタビューを行って作成した日本の原子力事情や危機管理、福島第一原発事故を巡る一連のドキュメンタリー報道の中で、菅の対応は、原子力危機に対する危機管理が整備されていない状態でできること中では十分なものであったと評価した。また日本の政界、財界、産業界、マスコミには総理大臣すらコントロールできない原子力村と呼ばれる巨大なネットワークが存在すると指摘しており、原発事故後に然したる確証も無いままにマスコミが行った菅に対するネガティブ報道を行ったことや、政界で菅おろしの動きが急速に広まったことについても、菅が原子力行政をめぐって原子力村と真っ向から対立したことが大きな原因であるとしている。
 ●イギリスのBBCは原子力事故に関して作成したドキュメンタリー「Inside the Meltdown」の中で当時の東京電力の対応を強く批判する一方で、菅の対応は最善とはいえないが、それなりに高く評価はできるとした。
 政治家や地域の利権に無縁の海外メディアは、国内の政界や財界とのつながりを持たないためか国内のメディアに対して、正反対ともいえる反応であった。
  危ないのは低劣な国のジャーナリズム
 似たような、政権非難は、阪神大震災時にもあった。神戸長田区のゴム工場が密集したところで起きた震災による火災は、消火栓も無く、消防自動車が入る道も無いところで、鎮火することが出来ず、幾日も黒い煙の映像のニュース続いような記憶がある。阪神大震災の像である。これは、自前の水源をもたない神戸市のひとつの特徴だと思った。神戸ウォーターなどと言うが、神戸の水道水は一般に塩素臭が強い。遠くの淀川の水を塩素滅菌しているからだと思っている。神戸が都市づくりを怠ってきたことのツケが廻ったとは、当時、野坂昭如が言っていたことである。日本の都市作りのサボタージュの責任を村山内閣の問題にすり替えるような痴愚の説があったが、よく似ていると思った。
 2013年9月、ブエノスアイレスのIOC総会で、安倍晋三首相は、福島はunder contorolであると言った。日をおかずに、安倍首相は、重装備に身を包んで福島原発を訪れた。その写真は世界に流れた。実は、under controlでないことを自らアピールしていたのである。  そうかと思えば、その9月20日の毎日新聞に福島原発事故による汚染水漏れで懸命の対応をしている東電関係者が「状況は統御されているとはいえない」と民主党の会合で言ったことに対して、下村文科大臣が、いわば「大本営発表」と齟齬するようなことを言うなと激怒したという記事があった。
2016年9月25日の毎日新聞夕刊
 毎日新聞2016年9月25日の夕刊は次のようなことを伝えていた。
 東京電力福島第1原発周辺の飲料用や農業用の大規模ダムの底に、森林から川を伝って流入した放射性セシウムが濃縮され、高濃度でたまり続けていることが環境省の調査で分かった。50キロ圏内の10カ所のダムで指定廃棄物となる基準(1キロ当たり8000ベクレル超)を超えている。ダムの水の放射線量は人の健康に影響を与えるレベルではないとして、同省は除染せずに監視を続ける方針だが、専門家は「将来のリスクに備えて対策を検討すべきだ」と指摘する。
 汚染水は已然としてuncontorolである。まだ、残っているのだが、廃炉に至っては、その計画も明らかにされない。
 ジャーナリズムにも「グローバルで怜悧な大局観」は必要であると思う。「日本のジャーナリズムに潜む病弊は根深い」とも思う。
 
六 「情報士官小野寺信の孤独な戦い」とは何だったのか-日本という国家、日本軍、戦争、国民
 
 NHKドラマ『百合子さんの絵本』の原案本になる著書だと知って、この岡部伸氏の著書を読み出した。2012年8月25日発行の本書を入手したとき(2016年9月)には、第7刷になっていた。「百合子さんの絵本」というドラマのタイトルからは、むごい戦争にさいなまれた婦人の話かと思った。実は、エリート軍人夫人のことであり、絵本もそれほど出てこなかった。
 本書の内容は、旧日本陸軍の世界的なインテリジェンス・オフィサー小野田少将の活動で、北欧という舞台からして、我々には馴染みのない世界のことであり、その点は興味深いことであった。
 そのように、本書は、我々にとっては、殆ど知らなかった歴史・戦争の重要な断面を見せてくれているのにも拘わらず、また相当の分量の叙述であるにも拘わらず、腑に落ちない思いを本書の読後にもつのは何故だろうか。小野寺少将によるヤルタ密約のスクープ電報は、国際情勢を示す第一級の情報である。岡部氏は「(ソ連仲介による和平工作の)一方、ソ連の参戦がないことを前提にアメリカ軍との本土決戦を目指していた大本営陸軍部や陸軍省などの幕僚にも、確実にソ連が参戦して来るというヤルタ密約電報は、ソ連が参戦しないという前提条件が崩れるため、これまた『不都合な真実』であった」(P.454)とする。情報の段階で、それを「真実」と表現するのはどうかと思うが、それほど確実だったということだろう。
 しかし、ソ連参戦があるかどうか言う前に、当時の戦況を客観的に見て、本土決戦を「目指す」などというようなことを、まともに考えていたのだろうか。例えば、1945年4月、日本海軍の象徴的な戦艦大和は、海上特攻隊として沖縄方面に出撃し、坊ノ岬沖でアメリカ機動部隊に攻撃され、主砲を一発も撃たずに撃沈されている。とても「決戦」を目指せるような状況ではない。決戦どころか、本土での万歳玉砕くらいしか想像できない状態である。
 佐藤優氏の解説も含めて本書の趣旨が分かり難いのは、大本営が小野寺電でヤルタ密約の秘密情報を受け止めておれば、ソ連仲介による和平に希望を託すようなことが無く、遥かに損失を減らせたというなことなのか。つまり、日本は原爆投下やソ連参戦を見ることなく、無条件降伏していたということになるのか。広島や長崎の被曝、ソ連の参戦前に無条件降伏していたということになるのか。先に、堀栄三『大本営参謀の情報戦記』が、広島被爆のあと「堀たちの頭に、原爆という語は、その当時かけらほどもなかったことを告白する」(p.260)と大本営参謀が述べているのを紹介した。海軍が開発を依頼していた荒勝文策は、被曝直後に原爆であると認識している。
 本書の192頁以下に1938年の小野寺の対中和平の検討の叙述がある。日中戦争も和平できる見込みが無かった状況である。
 唐突のようだが、堀栄三『大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇』に次のような箇所がある。
 
  ここで少し脇道に外れるが、大山巌元帥のことに触れさせてもらおう。
  日露戦争もいよいよ大詰めにきて、奉天会戦は、旅順から駆けつけた乃木大将の第三軍が、左翼から露軍を包囲するに至って、明治38年3月10日露軍は算を乱して北方へ退却しだした。児玉大将総参謀長は。総司令官大山元帥の承認を受けて、全軍に鉄嶺にっての大追撃戦の命令を下達、日本軍はあらゆる困苦を忘れて勇躍北進に移った。いまや露軍に一大潰滅を与えんと、総参謀長以下司令部は踊らんばかりの興奮状態にあったときだ。大山元帥は、
  「ちょっと児玉さん」
     と児玉総参謀長を自室に呼んだ。
  「えらいご苦労じゃが、早速東京へ行ってくれんかいのぉ-」   
    児玉の方がびっくりした。
  「わしは、この辺が限界じゃと思っとる。至急政府に何とか講和の手を打たせてくれんかいな」
   普段、まるで昼行燈のような風貌の大山元帥は、部下が眼前の勝利に酔って興奮のさ中にいるとき、すでに満州軍の戦力と日本帝国の国力とを秤にかけて、参謀たちが考えるその先のことを心配していた。
     かくて児玉さんは東京に走り、日本はボロを出す前に講和へと進んだ。(p.192)
 日露戦争の終結の状況である。岡部氏の叙述に腑に落ちない思いをもったというのは、政治指導の中枢とか大本営が駄目だったが、インテリジェンスは、特別に優秀だったとか、そのような言い方は出来るのかということである。岡部氏は、東条が(補給能力は2年程度しかもたないという報告に)「『日露戦争では、勝てると思わなかったが勝った。机上の空論では戦争はわからない』と一顧だにしなかった。インテリジェンスを軽視した独善的な戦略決定だった」(p.238)とするが、問題はインテリジェンス軽視云々ではない。補給能力が2年以上持たないというのは、戦争する能力が無いということである。そもそも石油を止められて生じた対立ではないのか。インテリジェンスの問題などではない。基本的な認知能力の問題である、それを認識する能力も無いということではないか。
 岡部氏の叙述には、常識では分からないところがときにある。例えば「2・26事件後、皇道派の多くが軍を追われる粛軍人事が断行され、軍部大臣現役武官制が復活した。軍の政治介入が進み、軍部が台頭することになる」(p.237)もそうである。岡部氏が日本の国としての解体状況を書いておられるのだったら、そうかと思うが、よく分からない。
 次のところは、半藤一利氏の言のようなのであるが「そして(小野寺電抹殺の)もう一つの理由として挙げたのは、『小野寺が皇道派とみなされていた』ことだ」「『小野寺はとても剛毅な名将だったが、統制派が幅を利かせていた作戦課は、皇道派の旗頭、小畑敏四郎が最も目をかけた小野寺の情報を信用しなかったのだろう』」(p.455)とある。近代国家の軍隊で、皇道派の者の電報だからという理由で統制派が握り潰すなどとは、とても信じられないことである。皇道派というのは、2・26事件で1483名の下士官兵を動員し、首相官邸や陸軍大臣官邸などを襲撃し、政府要人を殺害したグループである。スローガンは「昭和維新・尊皇討奸」である。元老重臣を殺害して、天皇親政を実現したら、政財界の腐敗や農村の困窮が収束するというものである。農村の困窮の最大の原因は、当時の国家予算の6割にも及ばんとする軍事予算である。このことは、当時、ゾルゲが公刊されていたドイツの雑誌に投稿していることである。この危機的状況は、極秘のことでも何でも無い。彼らは、軍縮条約の調印を統帥権の干犯と叫んでいたのである。それが兵を動かして政府要人を襲撃殺害するのである。このような粗暴で、軍隊的規律も維持出来ない存在を許してしまっていたこと自体問題である。「皇道派とみなされていた」ということは、皇道派ではなかったということだろうが、近代国家の軍隊内のグループとしてはあり得ない存在にシンパシーをもつような叙述をしているようでは、第2次大戦期の日本政府も大本営も解明のしようがないのではないか。首相官邸や大蔵大臣私邸を襲い、明治以降の日本の財政を支えてきた高橋是清も殺害し国難を招来させたのが皇道派である。
 岡部氏はどうして、小野寺を皇道派とみなすような言い方をするのだろうか。小野寺が「君側の奸」を討つことを課題とする皇道派と推測されるようでは、小野寺が情報将校として活動でき冷静な国際分析ができるのかと思う。
 それよりも、小野寺が皇道派であることを、小野寺電が大本営などで、その意義を発揮できなかったことの理由とされる要因とされる岡部氏の叙述に釈然としないものを感じるのである。
 繰り返すが、2・26事件後、粛軍人事などで政府や軍が悪くなったわけではない。2・26事件は最悪であるが、皇道派なる存在自体、日本の国や軍が合理的な展開を果たせなかった表れである。岡部氏は「皇道派の多くが軍を追われる粛軍人事が断行され」などと呑気なことを言っておっては駄目なのである。明治の政治家も思わなかった、「天皇の親政」などというオカルトみたいなことを言っていては駄目なのである。
 確かに、皇道派の動きと解されているなら、小野寺信少将の活動はやはり「孤独な戦い」であったに違い無い。
 しかし、大した武器ももたず、食料の補給も無く、侵略地へ送られた多くの日本兵は、「孤独の戦い」どころではない、過酷な戦いというより、「生存」を強いられていたのである。

2016年8月20日 (土)

不愉快なNHKのドラマ『とと姉ちゃん』(西田征史脚本)

一 NHK落合将プロデューサーのでたらめな話
 2016年度前期のNHK朝ドラ『とと姉ちゃん』は、ユニークな雑誌として現在も健在である『暮らしの手帖』とそれに関わる人物(大橋鎭子・花森安治など)をモデルにしたものであることは、NHKが今度のドラマは『暮らしの手帖』と花森安治・大橋鎭子の話ですよと宣伝に努めていることからも明らかである。『暮らしの手帖』がモデルと宣伝した上、登場人物名を大橋鎭子の三姉妹を小橋常子の三姉妹、花森安治を花山伊佐次ともじっている。なのにモチーフだけをもらった創作だとしている。花山や大橋をモデルをしたドラマではないとする(落合将)。尤も、落合はモチーフもモデルもそう違わないと言っている。しかし、「資料提供 花森安治・大橋鎭子」とタイトルバックで明記し、創作の作品だと何故言うのか。
 宣伝のために『暮らしの手帖』や花森安治や大橋鎭子の知名度を利用し、つまらない話でドラマを作るので、実話に規制されたくないと言わんばかりである。要するに勝手なのである。
 『とと姉ちゃん』は西田征史が作った話だとしている。確かにモデルでもモチーフでも構わない、というより簡単に分けられるものでもない。話をつくるための勝手な出来のよくない西田が作った張りぼては、白けるのである。西田はギャグ作家として年期が入っているらしいが、話の端々に訳の分からんことがありすぎである。落合将は肯定的なようだが、確かなモデルとのギャップを感じないことも無いだろう。本当に感じないのなら、そのような無能・無感覚な人物は人々にとって有害なだけである。現存した人物とのギャップについては、後で言うとして、まずドラマに出てくる異様というか耳ざわりな言葉である。「とと姉ちゃん」?大橋鎭子さんが、子供のときに父親の葬儀に際して喪主を勤めたというエピソードが元になっているようである。「とと・かか」とはどこの言葉なのか。ドラマの小橋家は高学歴のいわば資産家系で、家庭でも、ちょっと庶民的とは思えない丁寧な言葉遣いである。「とと・かか」など、どこのギャグにも使えそうもない。「あまちゃん」の亜流か?
 「どうしたもんじゃろうのおー」も意味不明の白け台詞である。さすがに、作者自身、白けると思ったのだろう。使用頻度は激減している。
 落合は西田が有能で面白いドラマを作るというが、正直白けるばかりである。一貫したモチーフも見当たらない。それは西田がギャグ作家の由縁なのか。モデルにこだわらずにすることでモチーフを出したというが、モデルになる人々の現実をゆがめてしまってどんなモチーフが出てくるのか、落合将はNHKのプロデューサーだろう。判らない筈は無いと思うのだが。
 西田も落合もモデルの姿をゆがめる方がドラマになると思っているようでは最悪である。視聴率が20%を連続して越えているそうであるが、西田とか落合の制作者としての資質・姿勢・教養は底が見えたと言っても過言ではない。
 あざとい演出など論外である。人物のモデルの大橋鎭子さんは、女学校卒業後勧業銀行の調査部に勤務する。ドラマの小橋常子は卒後、タイピストになる。なぜタイピストなのか、しかも、「邦文タイプ」であるが「和文タイプ」と言い通している。ワープロが登場するまで、みんな使っていたものである。それにドラマでの常子のタイピングの場面ではおどろくほど拙い。これでは到底仕事にならない。そうであるのに、クビになりかけたとき、「私は家族をやしなわなければならないのです」と泣いて懇願している。家族を養うほどの技術とはとても言えないのである。会社の男社会とか女性の職場事情とかいろいろ話題にするのだが、いずれも一々挙げる気もしないほど拙い。クビになりかけたきっかけが女性二人で出かけたビア・ホールでの騒動である。戦時中のことである。確か常子が同僚の女性から相談したいことあると出かけたようだったが、西田とか落合とか、時代や社会をどう考えているのか、全く理解に苦しむ。
 西田も落合も、実はNHKの制作部全体が、時代とか社会についての感覚も認識も全く無いと思わざるを得ない。モチーフ以前の問題である。
 
二 木俣冬氏のチェック
 
 西田の同業者らしい木俣冬氏のチェックの入ったサイトの文をたまたま見たことがある。一方的にぼろくそに言うのは避けている。やはり同業者のいたわりなのか。暫く続いていたことがあるのが「黒とと・白とと」という評価表だった。これは拙いなと思われるところを「黒とと」、なかなか良いと思われるところを「白とと」と論評していた。見たのは、戦時中の話のところである。ドラマに当時の話にしては変なことが多くて、正直、ドラマを征史ではなく正視できなかった。木俣氏も厳しくチェックし難くて、「黒・白」一覧にして論評したものだろう。
 「黒とと」とされたところは、ちょっとありえないなあ、というところのものである。だいたい、人々の生活の歴史がモチーフのドラマである。1回はわずか15分のドラマである。「ちょっとそれはおかしいのじゃないか」というとこが1つでもあれば、喜劇でもコミックでもそれは失敗なのである。ところが、「黒とと・白とと」一覧は最近見かけないが、「黒とと」が半分ほど並んでいたときがあったように記憶する。これは、ドラマとしては明らかにどうしようもない「落第」ということである。
 同業者をけなすようなことはしたくないのかも知れないが、同情的な表現は、自分に対する甘さと思わないといけない。過剰なケチ付けをする必要はないが、名前のもじり方からからして大橋鎭子さんや谷森安治氏をモデルとしていることは否定できないだろう。
 ドラマの宣伝もそうであり、企画の段階から、『暮らしの手帖』の話題を念頭にしているものである。「ドラマ」にしており、しかも名前も捩っているのだから、実話とは別の物語としてもよいのだろうが、話題だけ依存して、モデルに対するオマージュが全く欠損してしまっていないかと思うのである。というより、モデルを全く理解していないのである。理解できていないのである。歴史や社会についての関心も無いことは、戦時中の家の姿をみてもわかる、住居がとても奇麗で時代や状況を全く感じさせない。衣服にしてもそうである。これが『暮らしの手帖』を刊行することになる人のドラマなのである。
 木俣冬氏も本当は気になったのでは無いのか。
 
三 「大橋鎭子」のことではない、という言い訳の問題
 「大橋鎭子」さんのことではない、として「小橋常子」とし、静岡の女学校から東京府立高等女学校へ編入する。ところが、この女学校の程度がよろしくない。
 正直、これは西田という脚本家の資質の無さに起因することである。府立高女というだけで、そこに通学する女性のプライドと資産が判らないといけない。だから弁当屋の娘の制服に対する憧れも成り立つのである。このエピソードとつまらない苛めとは全く不整合じゃないか。
 美子の学校へ常子がのりこんで失敗するエピソードも、これまた西田のつまらないギャグ台本を想起するだけである。こういうつまらないギャグ台本を落合はじめNHK制作部は歓んで歓迎して国民に垂れ流しているのなら、NHKの受信料契約を是非考え直さないといけない。
 大橋鎭子さんが、女学校を卒業後、勧業銀行調査部に勤務し、日本女子大に入学し、病気で止めて、読書新聞に勤務していたという経歴は、後に『暮らしの手帖』を編集出版することで外せない経歴である。
 常子の台詞で、耳障りなものが度々ある。「儲けないといけません」。一女性起業家の話がモチーフなのか。広告を「入れる入れない」が大騒ぎで、花森がモデルの花山が会社を辞めるというエピソードがある。常子に会社を存続させるために「社長としての私が決断しました」とか言わせている。そもそも、会社のために仕事をしているわけでも、儲けるために始めたことでも無い筈である。
 そもそも西山にはモチーフなど無いのだろう。読書新聞をしていて、戦後の生活のなかで、みんなが欲しがっていた情報を提示できた喜びが判らないといけない。
 ドラマなのに、戦後の社会の姿・風俗の画面が全くなっていない。
 落合は仕事をちゃんとしろよ。戦後、戦地から帰って間もない人が、糊が効いてアイロンが当たったワイシャツにネクタイで登場するのにはかなわんよ。そんなので、『暮らしの手帖』の編集発行をしていた人たちの話がモチーフになると思うか。
 モチーフの話で、平塚雷鳥が唐突に出てくる。これは真野響子を出演させたかったからか?鞠子がフェミニストらしい文を期待したら、「胡麻汁粉」の話になったので、面食らっていると、「変わるものよ」とかいわれ、衝撃をうけたような場面がある。これも変である。というのは、1946年に戦後第1回の総選挙が行われ一挙に39名の女性代議士が出現しているのである。今もこの記録は破られていない。『青踏』が公刊された時代とは違っているのである。『暮らしの手帖』もそういう具体的な生活の充実に目を向けた雑誌であった筈である。
 西田も落合も『暮らしの手帖』と「花森安治・大橋鎭子」を全く理解していないのである。

2016年6月25日 (土)

TBS日曜劇場『99.9 刑事専門弁護士』のなっていない脚本(宇田学)  ―「刑事専門弁護士?」というより、「雑な私立探偵物語」

 日曜劇場『99.9 刑事専門弁護士』も、今夜(6・19)が最終回だったようである。とんちんかんなドラマ展開にいらだつことが無くなるのは結構である。松本潤の大人を小馬鹿にしたような子供が小首をかたむける姿ももう結構である。法律監修・國枝某とあったように思っていたが、もっといろいろ法律家と称する人物か関わっているそうである。それが芝居で平気でとぼけたことを言わせているのは、どういうことなのかと思う。
一 99.9という数字
 刑事裁判で起訴された事件の有罪率が99.9になるかどうかについては、必ずしも正確ではないという真摯な投稿もある。正確で無い数を一般的なものとしてタイトルに利用しているところに、ドラマ作家宇田学のなっていないところがある。日本の刑事裁判では、起訴された事件(起訴されないと裁判にならない・蛇足)の有罪率は、高いということは確かである。それは実際にほとんどの事件が被告人が有罪を認めている事件であることでもあるが、日本の場合「精密司法」と呼ばれるほど、厳密な手続きの上で立証を行っているとされるからである。
 ところが、この「99.9」を冠するドラマの最終回を含め幾つかを見たが、ドラマで描かれているような捜査では、とても「精密司法」とも「精密捜査」とも呼べない。従って、ドラマのような状態だったら絶対に「99.9」%、有罪にはなり得ない。
 だから日曜劇場のような杜撰な捜査の上で起訴をしたようなドラマの話が無罪で終わるのは、よほどのことが無い限り当たり前のことである。何のドラマ的展開も無いドラマである。「精密」な捜査も司法手続きも全くなされていないのでは、それこそ無罪率99.9%である。
 
二   粗雑な私立探偵物語に、まるで刑事裁判をしているかのように「99.9」など被せるな!
 第9話は、確か国仲涼子が被告役だった。おかしいと気づいた松潤などが、関係者全員を呼び出して、事情を聴取する。つまり捜査をするのである。結果、長男役の平岳大が犯人だったことを見破る話である。結果として国中涼子は無罪になるが、弁護活動の結果では無い。捜査権をもたない素人私立探偵の活躍である。
 裁判活動でもなく、弁護人の仕事でもない。名探偵が真犯人を見破った、とんまな犯罪人を挙げたという話である。どこが刑事専門弁護士だ。
 刑事専門「弁護士」じゃない、単なる刑事の話でもない。被告の立証された有罪を崩していくという裁判ドラマを期待する者が野暮ということか。法律ものらしく、終わりに一捻りあるらしい。
 最終回もマヌケな検察庁の話である。女性が同じような手口で殺され、何の縁も無い男「石川」(中丸雄一)が捕まり、落ちていた血液と毛髪のDNAが一致したとされる。執拗な検事(警察でないらしい)の取調で、自白もしてしまったそうである。
 だいたい、この犯人とされた「石川」はどうして捕まったのか。連続して女性が殺害されているのだが、なぜ無縁の「石川」が逮捕されたのかさっぱり分からない。ポイントとして現場に毛髪と血痕が残されており、それが「石川」のDNAと一致するというのである。
 このような話が全く困る。ドラマにも何にもなっていないのである。他の条件なり材料があって挙げられた「石川」がいて、調べると現場に残されていた毛髪などが一致するというのが、普通のドラマである。日曜劇場がその「普通」を突破する話を展開しているのでは決してない。杜撰な、どんなドラマにも採用されない話を書いているだけである。あまりにも馬鹿げている。放映などするな、と言いたい。毛髪と結婚のDNAが合致する人物をどこからか探して来い!と言うのは、作り話にしても荒唐無稽である。話が逆になっているから、そんなとんでもないことになるんだ。
 最終回の話がこんなとんでもない筋書き― とんでもないことはわかりますね。DNAが一致する人物を(東京都内に限らず、全国、あるいはそれ以上から……通り魔とも想定しているから場所も地域も特定できない)を指定する困難 ―で出来ているのである。
 毛髪だけおいておいても、DNAが判っても、それが誰のDNAか判らんだろう。だから、そもそも「石川」が何で捕まったのか判らんと最初にもどる。毛髪のDNAと一緒だと言われても、それがどうしたというものだ。
 起訴も覚束ないもの(ということは裁判できないということなんだが)に、裁判で「検察官」(弁護士ではない)は、どうするのか(同義反復)。
 
三 深山弁護士(松本潤)のよく分からない最終弁論
 最終回(あるいはその前から)で深山(松本潤)の父親が冤罪で起訴されて間もなく亡くなった過去が明かされた。、班目事務所の班目弁護士(岸部一徳)がその父親の親友であった。そしてその父親を冤罪で起訴したのが、班目の同期の現東京地検検事正大友修一(奥田瑛二)ということで分かりやすい劇の人物関係図が出来た。要するにコントもどきのようだ。小ネタ・ダジャレもそうだ。
 それとの、つまり面白くも無い御ふざけと帳尻合わせのように判決後、被告人らを激しく泣かせるような脚本になっている。もともと言われの無い逮捕・起訴の筈なのだろう。もっと怒ってしかるべきかと思う。
 ところが、その号泣と合わないのが松潤の最終弁論である。最期の見せ場となる深山弁護士(松本潤)の劇には必要無い(と劇中で述べる)最終弁論である。この陳述こそがドラマの主張のようである。見ることができたら、ゆっくりチェックしてもよいが、その必要も無いだろう。
 「石川(中丸)さんは無罪がはっきりしています。しかし、石川さんの無罪が確定しても石川さんは、元には戻れません。失われた日常生活は戻りません。誤った逮捕、起訴によってその人の日常はかえってきません。その人の人生は大きく狂わされてしまうのです。」「日本の刑事裁判では、99.9%が有罪です」と松潤が喋る。99.9という数字が必ずしもそうでないというデータもあるが、さらに松潤は「どうして、そうなるのでしょうか、それは国家権力である検察官の判断だから間違いが無い、正しいと思っているからです。」「もっと事実を見てください。事実はたった一つです」と続ける。「この事件は、刑事事件で最も大きな罪とされる冤罪事件です」
 この弁論は、この最終回の山場、あるいは、日曜劇場のこのシリーズの山場として、クライマックスとして設定されたものである。それにしては出来が悪い。
 一つ目、このコントばりのドラマには、「石川」という被告人が出てくる。冤罪事件として有名な狭山裁判の石川さんを連想してしまう。狭山事件の石川さんをもじっているのだったら、宇田学は最悪だ。ドラマで「石川」が逮捕されて無罪になるまでいくらもかかっていない。宇田は、石川一雄青年と一緒にするような発想の醜悪さを自問すべきだ。もし、「石川」としたことに他意は無いということであれば、「冤罪」を口にしながら、その被告人を「石川」とするのはあまり無自覚でないか。「石川青年」として覚えている私は、新聞の写真で何十年ぶりかの石川氏の姿を見たとき、少年期を脱したばかり青年のあまりにもの変貌ぶりに愕然とした。監獄で絶望を繰り返し過ごした年月を思い絶句した覚えがある。深山弁護士(松潤)が、とくとくと日常生活はもどらないと語るようなことは、あの石川青年については言えても(しかも決して無罪になっていない)、ドラマの「石川」に対しては、何の心配も無いと言ってよい。宇田の脚本はここでも白けるのである。
 二つ目、「誤った逮捕、起訴によってその人の日常はかえってきません。その人の人生は大きく狂わされてしまうのです。……日本の刑事裁判では、99.9%が有罪です」と述べる。誤った逮捕で、起訴になる可能性は少ない。しかも、ドラマのようなルーズな起訴が有罪になる可能性もほとんどない。それはドラマの展開のとおりである。ドラマで無罪になるのは、斑目法律事務所の弁護士の活動がすばらしいからではない。ドラマでの捜査・起訴のやり方が出鱈目なので、とても有罪にできない「裁判」だからである。「99.9……」の如きは検察側からみても杜撰この上ないドラマである。
 深山弁護士(松潤)が、逮捕・起訴・有罪判決という決まったレールがあるようにとくとくと喋る。裁判の原則ルールをTBSの法律監修スタッフな知っている筈だから、宇田学に教えてやっておくべきじゃないか。有罪の判決があるまで、被告人は「無罪の推定」をうける、というのは、誰も勉強のし始めに教わることである。TBSのサイトに「推定無罪」と書いていた。推定無罪というのは何か?無罪にいくつかある種類の一種なのか。「起訴されたら有罪決まり」だったら、裁判も裁判前の活動もどうなるのだ。宇田は少しは勉強してから、松本潤に喋らせろ。少し勉強した高校生でも、宇田学のようなヘボい芝居は書かない、というより書けないだろう。
 三つ目、繰り返しになるが、宇田が松潤に言わせる次の台詞もまずい。「(有罪率99.9%)どうして、そうなるのでしょうか、それは国家権力である検察官の判断だから間違いが無い、正しいと思っているからです。」「もっと事実を見てください。事実はたった一つです」。宇田は「刑事専門弁護士」などとタイトルに書きながら、刑事裁判での弁護士の仕事を何一つ判っていないようである。少しは、アメリカのリーガル・サスペンスの何編かを読んでもらいたいものである。
 四つめ、「この事件は、刑事事件で最も大きな罪とされる冤罪事件です」とある。気持ちは分からないことはない。しかし「最も大きな罪とされる冤罪事件」はどんな犯罪類型なのだ。冤罪の意味や問題についての勉強なしに台詞に入れたのだろう。
 
四 出演者たちには、つまらないドラマだという自覚はないのだろうか?
 班目事務所長班目弁護士役の岸部一徳やパートナー佐田弁護士役の香川照之、検事正大友修一という重要な役をする奥田瑛二、それに時代劇『ちかえもん』で新境地を開拓した青木崇高らは、キャリアも積んでおり、いろんな作品も知っている筈である。
 彼らは、ドラマの展開には、それほど違和感など感じず、つまらないダジャレと小ネタで仲間内で楽しみ、10回のシリーズの録画を終わらせたのだろうか。
 視聴率は高いそうである。しかし、本格的なお笑いには及ばない小ネタでジャニーズ系の脇の貢献をして、何が楽しいのか。
   役者だったら、ジョン・グリシャムとかスコット・トゥローなどの作品や映画をみることもあるだろう。それを読んだり見たりしたときの緊張感・高揚感をひとたび味わったようなことがあったら、自分たちの役者としての情けなさを自覚できると思うのだが。

2016年6月13日 (月)

NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』についての疑問

一 モデルを理解すること
毎朝、時報がわりに見るようになった連続テレビ小説である。しばしば世間の話題になったりするので、見ておくことにしている。
 一般には、あまり知られてはいなかった広岡浅子をモデルにしたドラマ『朝が来た』は高視聴率を維持した。
 その後につづいたのが『とと姉ちゃん』である。主役に起用されたのが『ごちそうさん』で主人公の義妹役で評判がよかった高畑充希である。早逝する父親役が西島秀俊、その弟、つまり叔父役が、水木しげる役を演じていた向井理で、『梅ちゃん先生』の鶴見辰吾の叔父の役回りに近い。
 ドラマが始まる前から、『暮らしの手帖』の大橋鎮子さんがモデルのドラマだと言われ気になっていた。『暮らしの手帖』といえば、花森安治という編集長の存在は有名だが、その存在にまけない大橋鎮子という女性の社長の存在も興味深い。
 主人公は「小橋常子」としているから、明らかに大橋鎮子をモデルにしたものだというより、大橋鎮子ですよ、と言っているようである。ところが、当然、ドラマであるから、ドラマとしての展開にしたのであるが、タイトルの「とと姉ちゃん」という名前がよく分からない。大橋家では、両親を「とと」と「かか」と呼んでいたのだろうか。ちょっと違和感を覚えるのは、浜松の会社のそこそこお地位にいた父親が家庭でも子供たちにずいぶんと丁寧な言葉遣いなのである。子供たちも両親に敬語をつかっている、地元の悪ガキとも対照的である。それが「トト」「カカ」なのである。高等女学校へ進学しても成人しても「トト」「カカ」である。
 
二 モデルを理解すること(の2)

 この手の、いわゆる実在のモデルを想定したドラマは、原案として、伝記や自伝が材料として出てくる。この「とと姉ちゃん」も確か、最初は大橋鎮子さんの著書が挙がっていたと思う。今、見てみると、「協力/暮しの手帖社 土井藍生 資料提供/大橋鎭子 花森安治」となっている。実話とはかなりはずしていますけど、ということなのだろうか。
 話(劇)にするため、深川の材木商の近くの弁当屋に一家で居候するという設定である。そこから、高等女学校へ二人の娘が通うのであるが、当時に高女進学率は、山本有三『路傍の石』でも判るように、本当に少ないのである。弁当屋の娘が制服を着てみて出来たほころびが元になったトラブルも挿入されてはいるが、大して意味のあるエピソードにもなっていない。
 大橋鎮子さんは第六高女へ通っていたそうである。ドラマでは埼玉県の深谷商業とか千葉の佐倉高校の写真をわざわざ使っている。重要文化財級の格調高い建築である。そのわりには、学校内の日常の光景は貧相である。戦後かなりたったころ、神戸の伝統的女子高での朝の挨拶には「よいお天気でございます」とか「鬱陶しゅうございます」(雨の日)などという挨拶が為されていたと聞いたことがあり、同様の話は別のところでも聞いた。寄留先の娘が制服に憧れることもあっただろうが、そこでの教育や学校生活でのギャップもあったことも想像できる筈なのである。
 ドラマ作りをしている筈だから、やっと建物には関心は行くようだが、「ことば」と社会、それに風潮に関心が無いのはいかがなものかと思う。
 
三 モデルを理解すること(の3)

 高女時代に歯磨き製造を企てたというのは、大橋さんの自伝にもある。それは、歯医者の指示によるものであったようである。ドラマでは、たしか、学生のアイデアだったのではないか。学生は優秀で、歯磨きもそれほど害が生じるものではないとしても、不特定の人の口の中に入れるものである。ドラマの、その配慮とけじめの無さに大橋著とのギャップを感じ、NHKのドラマ作りが安易になっていないかと按じるところである。
 向井理が、今度のドラマは友人の西田の作品だとうれしそうに言っていたのが印象的だったが、今、NHKが危ないのは報道だけで無いのかも知れない。
 ドラマでは、実話をかなり変えて、小橋常子を、「浄書課」とかいうタイプの仕事をするところに就職させている。実話に近い調査課では、話を作りにくいと思ったのか、女性の仕事ならタイピストだと思ったのか、脚本の西田をはじめ製作の意図はさっぱり分からない。パソコンが普及した今でこそ、現場の人が男も女もパソコンを利用している。こんな時代だから、タイプの仕事が大きな役割をもっていた時期のことが判らないのかと思う。
 「浄書課」と称するところでの「いじめ」や、社内での女性蔑視が結構長く「芝居」されているが、現実離れの「お芝居」には、正直白ける。身内でお互い褒め合っていれば、その場しのぎで安泰だろうが、この安易さと無知は、いずれ、NHK(に限らず)ドラマの崩壊を招くことになる。
 「常子」が従事したのは、「邦文タイプ」(ドラマのように「和文タイプ」とは言わない)である。先に少し言ったように、昭和40年代は裁判所・法務局はもちろん、一般会社の議案書なども邦文タイプで浄書印刷していた筈である。
 現場のことを少しでも知っていた人がいたら、常子が職場へ連れて行かれたとき「あなたは何もしないでいなさい」となると思うだろうか。昭和50年代になるとワープロが出てきたが、それまで、つまり明治のころから、きちんとした文書は、タイプされていた。だから、少しでも当時の事情を推察できればタイプするものがないからといって何もしないで座っている余裕は無い筈だ。タイプするまでに、原稿を読んでみて(あるいは読み合わせて)、ときには調べることが出てくるかも知れない。タイプしたものを、チェックする仕事もある。それは、複数でやるのがルールの筈だ。
 「虐め」とか「女性蔑視」とか、あまりにも唐突なエピソードが溢れていて、仕事のルーティンに恐ろしく欠落している。白けるとはそのことである。
 テレビで大写しになった「邦文タイプ」を見て驚いた。前にも言ったように昭和40年代まで、全国にたくさんの公務員も含め邦文のタイピストがいたのである。機械も至るところにあった。邦文は活字を一字一字拾って打つのであるから、活字は逆さまに並んでいるのである。慣れない逆さまの活字を一字一字読んで探していると目が異様に疲れてしまう。やがて、活字の場所を覚えてしまい、書くより早く邦文が打てるようになってしまう。タイピストの仕事は過酷であるが重宝でもあるのである。
 常子のような仕事ぶりでは、とても役に立ちそうもない。タイプの仕事の現状についての一かけらの知識も無い人ばかりが集まって作ったドラマとしか思えない。今、日本で生きている大半の人が邦文タイプが社会の基礎だった時代を生きていた人の筈だ。
 会社の重要な会議の報告でも、判決でもタイプが間に合わなければ大変なことになる。「そんな者(タイピスト)の代わりはいくらでもいるんだ」などという会社は存続できなかった筈だ。この台詞もまずい。脚本家西田征史は出直して欲しい。ドラマ作りのルーティンが欠落しているのではないか。
 星野(坂口健太郎)が大阪へ赴任する場面があった。電車だった。東京駅から汽車にのるのだが、大阪へ行くのだったら普通は特急を考えるだろう。東海道線全線が電化するのは、昭和31(1956)年の筈で、それまでつばめも蒸気機関車に引っ張られていた筈である。そんな列車を河川敷で見送る常子の姿にリアリティが出てくるか。元毎日放送のプロデューサーだという同志社女子大教授は感激したようだ、暢気なやっちゃ。

2016年5月31日 (火)

TBSドラマ・日曜劇場の「99.9 -刑事専門弁護士-」第7話の救いようの無さ

 TBS日曜劇場の「99.9 -刑事専門弁護士-」第7話について、触れようと思ったが、繰り言のようにも聞こえるので、ほどほどにしておこうと思う。
一 現実問題に無関心なテレビ・ドラマ
  毎日新聞に「理の眼」というジャーナリスト青木理氏のコラムがある。その5月25日日は、刑事訴訟法と盗聴法(通信傍受法)の改正案についてのものであった。
 日本の刑事訴訟の問題の一端を訴えている。国会でもジャーナリズムでも議論が沸騰してしかるべき深刻さを述べながら、ジャーナリストとして歯がゆい思いをしているのが伝わってくる。法学部のスタッフからも伝わって来ない。日曜劇場の「99.9 -刑事専門弁護士-」は、日本の刑事訴訟には問題が多いぞ、と言いたくて、「99.9」などというタイトルを、良く理解しないままにつけたのではないか。
 ドラマが本当に評判を受けるのは、その時代と社会をドラマに構成できているかどうかによるだろう。そのことは、江戸時代に浄瑠璃の心中ものが流行った例でも判る。
 「99.9」%といわれることの意味を分からないまま遊んでいると、自らが腐っていっていることを分からないのではないか。
 
二 第7話の変な展開……脚本(宇田学)の問題か、法律監修(國松崇)の問題か
 「99.9-刑事専門弁護士-」は、流石に日曜劇場だと思う豪華キャストを揃えたわりには、全く気の抜けたドラマだ。気負った香川照之の姿に対して、松本潤のへらへらとにやけた姿のコントラストで持たしたようである。観る者によっては辟易している小ネタや駄洒落もベテランの芸達者に対して、小馬鹿にしたように松本潤が連発することで、ドラマ人気をとっているかのようである。
 このドラマは「刑事専門弁護士」いうタイトルのように、「グッド・パートナー 無敵の弁護士」のように主に依頼者の金銭利益を扱っているのではない。その理解がどうなのだろうか。というのは、第7話は、指紋一つとアリバイが不完全ということで殺人で起訴されている。どうやら指紋が一つあった花瓶のかけらは、被告人の持ち物の花瓶のかけらを紛れさせたものだというのが、ポイントになってくるようだが、もともと花瓶のかけらにあった指紋が1つだけというのも変である。もちろん被告人は自白は全くしていない。そんなことだけで起訴できるのなら、そんな程度で起訴した事件の99.9%が有罪には成り得ない。ちょっと証拠を検証するだけで立証はできないのである。
 もっといえば、第1話から起訴された事件の証拠は不十分なのである。アイドル松潤主演のドラマということでお目こぼしということなのかどうか、この程度の証拠で起訴しているということにしていて、よく警察・検察庁・裁判所からクレームがつかないものだと思う。
 脚本の宇田学ももう少し気にしてもよいが、法律監修が職務である國松は、もう少し職務上の責任を果たすべきではないか。

2016年5月29日 (日)

TBSドラマ・日曜劇場の「99.9 -刑事専門弁護士-」の視聴率の激落のわけ

  
 TBSの「99.9 -刑事専門弁護士-」の視聴率が第5話で、急激に落ちたとか話題にしている。それでも、最近のドラマの中では高い視聴率なので、話題にするのも白々しい感じである。急落の理由は、松本潤が公式ツイッターで、バレー・ボール放送のことを書いたのが反発を招いた……とか、あるいは、劇中の小ネタやだじゃれがあまりにうざいともある。
 確かに特に松本潤がやる小ネタや駄洒落は全く面白くも無い、しかし、アイドル・タレント松本潤の人気でもっているのなら、そんな小ネタや駄洒落は、そのドラマのポイントなのだろう。
 うざい小ネタや駄洒落そのものが、このドラマ、99.9の売り物なのだろう。つまらんドラマだと思う。というのは、「99.9 -刑事専門弁護士-」というタイトル自体がリアルな社会的事件を材料とし、99.9という数字が現実の刑事裁判のもつ意味を象徴させている筈である。
 その小ネタや駄洒落をきどってやるのは、いわば、歌舞伎の見栄のようなもので、リアリティを問題にする西洋演劇などの伝統からすれば、変なのだけど、そのように理解して製作者たちは遊んでいるんだなとも思う。しかし、それがうざく感じられるというのであるなら、その感想は健全だ。
 これほどひどくは無いが、しかける小ネタは福田靖脚本の「グッド・パートナー 無敵の弁護士」でも見かける。杉本哲太が扮するパートナー弁護士が、再婚相手との話題のために小話を作っているらしいが、古典落語のネタ話で使い古されたものである。劇の登場人物の多くが分かりそうな話である。たとえば、スズメを捕まえるためにみりんに漬けた米を食べさせるといった荒唐無稽な話であるが、落語では、相当大がかりな面白い話を作りあげるが、ドラマでは、その最初のアイデアだけを最後までもっていくのである。もちろんたいして面白い話でも無い。99.9ほどひどくは無いと言ったのは、その白ける話をアイドルの愛嬌話としてポイントに使っていないだけである。呆けかけのパートナー弁護士の話である。
 

 TBSの宣伝サイトに、プロデューサーが99.9の脚本オリジナルを「これまで舞台脚本・演出で培われてきた取材力とキャラクター作りに長けている宇田さんにお願いしました」と書いている。「キャラクター作りに長けている」宇田さんとあった。
 松本潤が扮する弁護士がちょっと、小バカにしたように、にやにやとしているのが気になったが、「キャラクター作りに長けている」宇田学の作品なのだろう。
 最初から気になっていることであるが、ドラマのタイトルが「99.9-刑事専門弁護士-」である。99.9というのが、ちょっとショッキングな数字としてアピールするとTBSスタッフは思ったのだろう。
 99.9という数字が、起訴された事件が有罪判決を受ける%だというのなら、有罪の判決を得られると考えられる事件しか起訴していないので、その結果が99.9%になっているのである。逆に言うと、0.1%でも、証拠が不十分であるのに起訴してしまっているということになる。戦前の政治家にも恐れられた検察官(後に首相になるが)平沼騏一郎ですら、起訴する場合、本当に証拠は十分であったか不安になったという。そういう場合、自白があると安心したという。
 このドラマは、そんなことにもほとんど無頓着に提案されたのではないかと思う。
 「無罪の証明率0.1%!」などと番宣で書いていたのではないか。ときどき言われることであるが、ときに有罪の立証も危ないときがある。かろうじて成り立っている場合がある。あの平沼騏一郎でも絶えず不十分ではなかったかと思ったというのである。合理的な疑いをさしはさむ余地がないほど立証しなければならないのである。それは、かろうじて成立しているとも言えるのである。
 しかし、最近、再審が始まった東住吉焼死事件は最高裁で無期懲役が確定してから、もう10年かかっている。
 そういう重い現実が並行して存在している主題をドラマにしているのだが、ところが、ドラマが、あまりにその現実と乖離していると、おふざけやダジャレが馬鹿らしくなってくるのではないか。
 実際に松本潤のファンにはどうなっているか知れないが、宇田学の脚本は、今回のシリーズでは、全くダメである。この失敗作を糧に勉強しなおすことはあるかも知れないが、どうころんでも、救いようが無い駄作である。
 まだ、続くようなので、その分、駄目押しを続ける。

 「刑事専門弁護士」というテーマを把握せずに、ドラマを作った。TBSのプロデューサーが宇田学を「これまで舞台脚本・演出で培われてきた取材力」と評している。どこに「培われてきた」「取材力」があるというのか。それとも、この貧相な主材力はプロデューサーのものか。
 「グッド・パートナー 無敵の弁護士」は、刑事事件ではない。したがって、ちゃらけた話も大目にみることができた。しかし、小ネタのつまらなさも、ダジャレも、大筋の話も宇田学よりは材料にもよるが救われる。
 しかし、福田靖といい宇田学も、期待されている脚本家だそうである。揃って全然駄目なのは、恐ろしい。つまり、日本のドラマが脚本レベルで駄目なようじゃないか。
 あれだけ高い人気を誇っていた水谷豊の代表作『相棒』の最近の視聴率の低下、実際に面白く無いという評判も、台本が面白く無いとも書いてあるものがある。
 観ていても、反町隆史が法務官僚では、白けてくる。そうかとおもえばやたらとちょける。更に白ける。もう止めた方がよいのかと思う。
 ドラマの脚本で日本の精神的状況の深刻さが露出したようにも思う。

2016年5月26日 (木)

日本国憲法について

 2012年末に再登板になった安倍晋三首相が改憲への願望を滾らせてきていた。それが祖父岸信介への思いからだとすると、国民とっても、日本にとっても迷惑な話しである。祖父岸信介が太平洋戦争開戦時の東条内閣での地位を理由にA級戦犯の嫌疑を受け、巣鴨拘置所に収監され、48年12月に釈放されたあと、公職追放された。その間に日本国憲法は成立した。戦後に開かれた帝国議会には、日本で最初に女性代議士が登院した。その人数は39名で、いまだに史上最多である。しかも、今の与党の女性代議士の多くがスキャンダルまみれの状況は、戦後すぐの代議士たちとは、志も現状把握能力も質的に違うようである。この議会で審議された憲法を占領軍の押しつけであるとか、憲法は日本国民が自主的につくるものだから、などという理屈をこねるのである。憲法前文にもつまらない嘲笑を浴びせているように聞こえることがある。ハイスクールの作文だというのである。「戦死」という病死者と餓死者など犠牲者が日本だけでも何百万人と出た戦争である。当時も飢えがいわば日常であった。つまり戦争の惨禍が日常であるときに起草されたものである。
 日本国憲法前文は、趣旨を把握した文にするように、長いセンテンスの複文の構成に作りあげられた苦心の作品であった。ところが、この文が幾つかの節が並列的にならべているのを、高坂正堯は、拙い翻訳だと大江健三郎に早口の関西弁でねじ込んでいたのは確か1960年頃のテレビ番組だったと思う。これは、全くの難癖である。未だに、その拙い悪口を真似してマスコミに売っている者がいる。憲法前文は、憲法制定の事実過程と、趣旨の要件を、立体的に述べ、それを実現する意欲を表現した文は、それ自体がリズムをもち、確かに名文であった。それは、小学校高学年、中学校初年生でも覚えてしまうことからでも推測できる。わけの分からない教育勅語のようなものを明文だと思い込んでいたのだろうか。
 珍妙な理屈を、正当なことを言っていると思っている様子は、学者としての資質とか、政治家としての資質を問題にする以前の問題である。このような総裁を駆除できない自民党、この自民党と支える公明党、これらを政権与党としてしまっている危ない日本と思わざるを得ない。
 戦後、GHQに肯定的に受け取られなかった憲法草案は、宮沢俊義案、松本試案、佐々木憲法草案などがある。いずれも戦前から当然ながら天皇機関説を主張してきた人たちでそのうえで国体は維持されたと思っているから、とくに抵抗なく新憲法案を書いていたのだろう。これらの憲法案をみたうえで、GHQから提起するといういきさつがあったので、占領軍につくられたという確信をもったのだろう。
一 日本国憲法について
 かつて、京都大学法学部では憲法の講義が一番面白く無かったのだと仰る先生の話を聞いたことがある。かつてのあの佐々木惣一が担当していた時代ではなくて、その後の担当者の時代の話のことである。「新憲法」という言葉を使うと、「新憲法ではない改正憲法だ」と訂正されたという。
 1946年に成立して1947年5月3日に施行された日本国憲法については、戦後の帝国議会で審議を経て成立したのにも関わらず、戦後、占領軍に押しつけられたものだという言い方を固持し、自らの政治主張の根拠にする人たちもいた。戦後の改革や審議を無にするやり方、というより妄想に近い記憶喪失は、なかば精神疾患にも似ている。というのは、戦前、軍人が内閣総理大臣として組閣し、アジアへの侵略から破滅的な戦争に突入し、国民と、アジアの人々を地獄への道連れにした過程に対する反省が戦後最初にあった筈なのである。それについての自覚が無いのである。先の安保法案が議題になった国会で、ポツダム宣言についって基本的な質問をされて、その答えに窮していた安倍晋三首相が新聞で取り上げられていた。
 戦前の過酷な政治状況が話題になるとき、昭和の初期は、それほどでもなかったと言われる。それは大正13(1924)年の護憲三派による加藤高明内閣が出現してから昭和7(1932)年に時の首相(犬養毅)が陸軍の青年将校に自宅で射殺され(5・15事件)、内閣が総辞職するまで「憲政の常道」といわれた政党政治が続いた。それを言われるほど悪くはなく穏やかな日が続いたと言っているのかとも思う。
 現職の首相が白昼、現役の陸軍将校に射殺されたり、海軍の部隊に首相官邸や陸軍省が包囲された時期とは、当時の人々にとっては、「憲政の常道」が行われた時期は違うのだろうが、山東出兵が相次ぎ、張作霖が爆殺された。軍中央の命令も、陸軍出身の田中義一の内閣の命令も無視された状態は、もうかなり危ない。
 1926年に北伐を開始していた国民政府軍は、27年に南京に国民政府をたてて蒋介石が主席になった。1928年に北伐を再開し5月には、山東出兵を繰り返していた日本軍と済南で衝突した。6月、関東軍河本参謀らが奉天引揚げ途上の張作霖を列車もろとも爆破し殺した。この年の4月には東大新人会や各大学の社研が解散命令をうけ、京大教授河上肇が辞職になり、東大大森義太郎・九大石浜知行らが大学を追われている。
 1931(昭和6)年9月18日、柳条湖の満鉄路線爆破を口実に、関東軍が軍事行動を開始した。21日朝鮮軍が満州へ越境出動した。このとき、朝鮮軍は当然、奉勅命令をもっていない。違法である。24日政府は不拡大方針を声明した。10月24日国際連盟理事会は満州撤兵勧告案を13対1(反対は日本)で可決した。翌32年1月3日に日本は錦州を占領し、7日にスチムソン米国務長官が満州の新事態を承認しないと日中両国に通告する。28日に上海事変が起こり、2月9日に前蔵相井上準之助が血盟団員に射殺される。29日にはリットン調査団が来日し、3月1日に満州国建国宣言があり、5日には団琢磨が血盟団員に射殺された。
 先に見たように、この後、5月に5・15事件がおこり、翌1933年の2月には国際連盟を脱退し、5月に鳩山文相は瀧川幸辰京大教授の休職を要求し、35年には貴族院で菊池武夫が美濃部達吉の天皇機関説攻撃を行っているように、混迷を煽るような出来事がいよいよ盛んになる。
 1914(大正3)年に勃発した第1次世界大戦は、主要な国々が総力戦体制で参戦した。勃発が複雑な国家関係・民族関係を背景にしており、この大戦を経て、ロシア帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国などが姿を消し、あるいは姿を変えた。多くの民族国家が成立した。1919年のはじめにパリで講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約をはじめ一連の講和条約が締結され、ヴェルサイユ体制とよばれる国際秩序が成立した。
 1921年にアメリカ大統領ハーディングの提唱で、合衆国・イギリス・フランス・日本など9か国が参加するワシントン会議がひらかれた。この会議がもとになってつくられた国際秩序をワシントン体制と呼ぶ。太平洋方面での植民地体制の維持、中国の門戸開放などを重要なポイントとする。ヴェルサイユ体制と並ぶ1920年代の国際秩序の柱になった。ワシントンで当時の主攻撃兵器の主力艦保有比率を英・米・日・仏・伊に5・5・3・1.67・1.67と定めるワシントン海軍軍備制限条約が調印された。平和をのぞむ風潮に対応し、軍拡競争の歯止めとなった。
 同趣旨の項目をみていくならば、1927年のジュネーブ軍縮会議がある。日本・イギリス・アメリカ間での補助艦軍縮を討議するがフランス・イタリアは不参加で合意に達せず解散することになる。
 1928年米国務長官ケロッグと仏外相ブリアンが中心となって「国際紛爭の解決のための戦争を拒否する」という趣旨の条約を8月27日パリで15か国が調印した。後に63か国が参加した。
 日本も田中義一内閣の内田全権が調印した。翌29(昭和4)年6月27日「帝国政府は1928年8月27日巴里に於て署名せられたる戦争抛棄に関する条約第1条中の『其の各自の人民の名に於て』なる字句は帝国憲法条章より観て日本國に限り適用なきものと了解することを宣言す」とした。しかし7月2日に田中内閣は総辞職した。不戦条約の公布は7月25日で、副書は内閣総理大臣濱口雄幸、外務大臣男爵幣原喜重郎となっている。
 1930年ロンドン軍縮会議で補助艦保有比率を英・米・日で10・10・7弱で調印された。
 1931年9月18日柳条湖の満鉄線路爆破事件を口実に関東軍が軍事行動を開始した。21日には朝鮮軍が満州へ越境出動した。24日に日本政府は不拡大方針声明を行っている。
 
二  2016年2月25日の報道ステーション
 2月25日の報道ステーションで、元中部日本新聞政治部長の小山武夫氏が幣原喜重郎にインタビューし、日本国憲法の天皇制と9条の戦争放棄は幣原がマッカーサーに提案したものだという証言をしたというテープをジャーナリストの鈴木昭典氏が発見されたというスクープが流された。
 この幣原の話は、憲法調査会事務局に保存されている「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について ー平野三郎氏記― 」(衆議院議員であり、幣原の秘書官であった平野三郎氏が幣原が亡くなる10日ほど前の、1951〈昭和26〉年の2月下旬に聞き取りをされた)とも整合することである。幣原の提案だとすることについては、マッカーサーの書簡にもあるという。
 今回、岸総理時代の憲法調査会での音声テープが幣原が自分がマッカーサーに提案したのだと述べていたことが記録されていた。報道ステーションとしては、占領時代の占領軍による押しつけ憲法だという思い込み信仰に大きな反証を提出したわけである。
 
三 憲法第9条
 日本国憲法は、占領期の占領期の押し付け憲法だとしたいほど、旧憲法とは違ってみえたのだろう。宮沢案・松本案にしろ佐々木惣一案にしろ、もとは、天皇機関説で、天皇親政など梅雨ほども信じない人たちが起草したものである。
 憲法と戦争のことだけを言うのなら、明治憲法は、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ…」(第4条)とか「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第11条)とあるが、具体的なものは一切なく「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第3條)とある。政治的に無責任の存在である。これは、現実の兵士がそう認識していたというわけではない。満州事変の18日の柳条湖事件の3日後で、林銑十郎の朝鮮軍は奉勅命令をまたず、越境攻撃している。「越境将軍」と言われるほどの有名な違法ぶりだが、その違法不敬ぶりは問題になっていない。逆に石原莞爾などから「期待」され内閣を組織している。
 宮沢・松本・佐々木も基本的に明治憲法の内容でも、国体は尊重されるのだから大丈夫だろうと思ったのだろう。しかし、実際には、日本軍は、それほど尊王心は無いのである。今の政権も、懸命に国民の命と生活を考えるよりも、ことあらば天皇を「利用」することを考えるばかりで、尊王心などは勿論無いのは伊勢志摩サミットの開催ぶりを見ればわかる。
 歴史をみれば、張作霖爆殺事件について、真相究明の天皇命令をサボタージュし続ける田中義一を叱る天皇に反発し秩父宮に期待する動きもあったという。
 平野三郎氏の記録からもおおよそが知られる、マッカーサーと会談した「幣原元首相が天皇制維持を要望し戦争放棄を提案」しそれをうけて着手したGHQ憲法草案には象徴天皇と戦争放棄が条文化され日本国憲法のもとになったという。幣原は外務大臣時代から協調外交を展開し戦争回避を進言続けた。戦争放棄は「決して強いられたんじゃない」と語っていたということです。幣原外交を協調外交というのはともかく「軟弱外交」という言い方は田中義一の「強硬外交」との対ですが、目立つものとして軍縮会議・条約があります。軍縮は日本だけでなく、列強にとっても課題だった筈です。なかでも日本では、ゾルゲが公開の資料を基にしてドイツの『地政学雑誌』『政治学雑誌』に投稿した論文など(みすず書房『現代史資料』24「ゾルゲ事件4」「日本の軍部(一九三五・八)」「東京における軍隊の叛乱(二・二六事件一九三六・五 )」「日本の農業問題(一九三七・一-三)」「日中戦争中の日本経済(一九三九・二-三)」『日本の政治指導(一九三九・八-九)」などで報告しているように財政は危ない状態(国家予算の6-7割が軍事予算)であったわけである。
 不戦条約(提案・締結は田中内閣)は、平和主義というより、国家の生存問題であったとも言いうる。負担になるばかりの巨艦製造をしていたようだが、新設の理学部などで、大急ぎで研究・開発を進めた新型爆弾やレーダーも到底、追いつくどころではなく、基礎研究の段階だった。
 「軟弱外交」というのは、根拠の内実を持たないものが、正当と思われる相手に投げかける愚劣なスローガンで、国をも亡ぼすものである。
 憲法第9条の元になった「戦争の放棄」は、突然、戦後になって占領軍によって押し付けられたものではなく、戦前から、具体的には1928(昭和3)年から条約として表現されていたものである。イギリスや、アメリカは、自衛権云々といって、その有効性を自覚していなかったようだが、それでも、日本は満州事変で、不戦条約に抵触したと思われる。
 日本国憲法制定時の首相吉田茂が憲法第9条に関連して「実際の戦争では侵略戦争も自衛戦争と言うんだ」と言ったのは、この不戦条約以降の議論を踏まえて言っていたのである
 それを、占領軍の押しつけだとかなんとか言うのは、病的な精神状態としか言えない。

2016年5月12日 (木)

TBS日曜劇場『99.9 -刑事専門弁護士-』 第3話・第4話

 最初から面白くない、変だ、と言いながら、毎回見ているのは、その都度少し気になることがあるからである。
 第3話、この話、作っていて変だと思わないですか。
 
 第3話はとくに印象的でもない、忘れてしまうので、メモがわりに書き付けておく。鶴見辰吾が扮する経営者の会社に常備していたお金が1000万円無くなり、会計を担当していて金庫を扱っていた女性が盗んだと逮捕され、家宅捜査の結果、女性宅の押し入れから1500万円が見つかったというのである。結局、経営者から女性への金庫の番号の伝え方に不備があって、女性には金庫を開けられないということが明らかになった。お金が無くなっていたのは、経営者が臨時の用立てで持ち出していたからだった。そんな現金の移動を行いながら、どうして女性社員を犯人として逮捕拘留させ、裁判まで行ったのか(最後は鶴見は白状している)、さっぱり判らない。社員の迷惑、経営者の人的責任、会社としての責任も総崩れである。  判ら無いのは、和解というか示談というか、そんな話が出てきたことである。それで、裁判を終わらせて、社員の病気の母と会わせるというストーリーも予定されるので、和解か示談とかは聞き間違いや幻ではなく、第3話に組み込まれていることのようである。「和解はしません。裁判をします」と確か榮倉奈々が言っていたと思う。和解にしても示談にしても、誰と誰がするのかさっぱり判らないのである。盗んだと認めて会社に返済して裁判にしないということだったのだろうか。  単純な金庫の番号の伝え間違えが判明し、無罪になった、それが0.1%の証明に成功したと……日本には警察が居ないのか?
 
 第4話 よくある冤罪作りの取調のやり方を逆使用した脚本……面白いか?
 
 板尾創路扮する男が強制わいせつで逮捕された。泥酔して全く覚えていないという。升毅扮する会社の人間が示談金を支払うと言ってきた。板尾の研究には、それくらいの金を払う価値が十分あるという。わいせつの被害者も示談を受け入れ、告発を取り下げた。無罪放免と思って会社に出た板尾の環境は冷たい、家族関係、とくに親子関係は壊滅的である。やはり、裁判で争いたいと弁護士にいうが、もう終わっていると言われる。そこで性的事件の被害者たちが怪しいと睨んでいた弁護士の松潤が、被害者や証人を調べたうえで、策を考える。事件の夜、それほど飲んではいなかったのに全く覚えていないほど酔っていた板尾はわいせつ行為をできるような状況ではなかった。前後不覚だった板尾が発見されたところまでどうして歩いていけたのか、松潤に状況を説明したバーテンも不審という舞台装置が出来上がった。事件としては終わっているから、わいせつの被害者として多額の示談金を受け取った女や、酔いつぶれた店のバーテン(実は睡眠薬で意識を無くした板尾を背負って現場まで運んでいる)を、香川照之・松潤・榮倉奈々など弁護士やパラ・リーガルが二つのチームを作って取調え、詐欺を自白させる。面白いことに、女とバーテンを別々のチームが取り調べて白状したことを、それぞれのチームに交流して女とバーテンが共謀した事件を作っていたことを白状させていくのである。よくある刑事が冤罪事件をこしらえあげるやり方、嘘の自供をとるやり方を応用しただけである。その結果、睡眠薬をバーテンからもらった女が飲ましたこと、板尾を泥酔させるのは、なんと升の指示だったことも判明する。  板尾の無罪の証明をするのではなく(板尾の有罪の立証を崩すのでもなく)、升毅・女・バーテンの不法行為を証明することで攻守は全く逆転したというわけで、インターネットにも、「スッキリした!」とか書いてあった。もちろん、最初に話題になった板尾の無罪を証明を証明したわけでもない、罪に陥れようとして升毅・女・バーテンの犯罪を追い詰めただけである。やはり無罪を証明してわけではない。ほとんど無い証拠から無罪を証明したのでも、ささやかな痕跡から犯罪を炙り出したわけでもないのだから、どこが「スッキリッ」てなるんだ、と思ってしまう。犯罪の材料を無造作に転がしておいては、とっちめるのもじれったいだけじゃないか。
 よくわからない、というより説明がはっきりしないのは、女がもともとはどこの人間かということである。確か、板尾の開発部に少し居たということではなかったか?その関係で升が、板尾の研究(あるいは研究者としての板尾自身)を自分の会社に保持しておくために、その女を使ったというのは升とその女は知り合いだったようである。  警察などの調べでは、女が会社の人間だったというのが分からなかったのか、それよりも升とのつながりなど分からなかったということか。
 板尾が正体を無くすような状態になったのも、酒にそう弱くない筈の板尾にしてはおかしい、逆に、酒に弱いのであれば、正体を無くすほど酒を飲めない筈で、そもそも板尾の犯罪に対してからがおかしいところだらけである。リアルな問題として板尾がどれほどのアルコールを摂取していたかは分からなかったのだろうか。警察では、のんでいる筈の量と意識不明の状態の不釣り合いについて何の疑問ももたないものか。
 
 刑事裁判とドラマ
 
 今回のTBS日曜劇場は「99.9%」などという、結構、衝撃度があるだろうと期待した数字のタイトルのドラマを放映した。松本潤・榮倉奈々を中心に岸部一徳・香川照之・青木崇高・奥田瑛二を配し、他にも癖のある脇役で固めている。それにしても、話が単純で、ドラマになり得ていない。岸部や香川照之の間で松潤がへらへらしていたら、格好がついているようなのである。  第3話は、金庫が明かなかっただけの話で、金庫破りとされたお嬢さんは迷惑なとても迷惑な話であるが、義理の母と施設育ちのお嬢さんとの愛情は、ドラマというのかどうか。
 第4話の主題のひとつの「わいせつ」は、実際に起こっている事件を検証してみれば判ると思うが証明も難しい事件である。
 ドラマは、それを逆にとってはぐらかしてしまった。これもとてもドラマとはいえない。
 ドラマの制作者が、「99.9」についての確かな知識もなくつくりあげたもので、八百長としか思えない仮想評判で誤魔化している次第である。
 この類いのドラマとして、前々回にみたがイギリスのドラマでBSで放映されていた『刑事ファイル』などに比べれば、背景が全く異なるとはいえ、感銘が違うが、それはどうしてかなのか。ドラマをつくる社会の文化の違いかと思う。
 次の文は、利谷信義東大名誉教授が東大教授であったときの著書『日本の法を考える』( UP選書、東京大学出版会 1985)の文である。
 
   ……成文法の中に答えが見当らないときは、だれかが、決定しなければならない。そして、この決定は、形ははっきりしていなくとも、平易で素朴な正義・公平・人道主義に基づいている方が、ほかのものよりも優れているであろう。……なぜなら、人間の行動に関しては一般人の考えや理想の方がずっと簡明直截だからだ。……(「司法に対する国民の参加」136頁)
  「成文法の中に答えが見当らないときは、だれかが、決定しなければならない」とは、言葉を失う乱暴な言い方である。刑事裁判ではありえないことである。これは、利谷氏が『岩波講座現代法6現代の法律家』(1966)で「司法に対する国民の参加 ―戦前の法律家と陪審法―」として書かれたものをもとにしている。日本でも戦前におこなわれた陪審制について述べられたものであるから、民事事件ではなく刑事事件であることは明らかである。  こんな法律家が日本を代表する大学で法律を講じていたのである。まともな刑事裁判ドラマが出現することを望むのは、とても厳しいようである。

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